「私が愛媛からなぜ宮崎に行ったか?」
遠い宮崎なのに…ところが私の住んでいる愛媛の南部地方、南宇和郡内海村柏は海にはめぐまれたが平地のすくないリアス式のすぐ山の土地であった。少年の頃はちいさい村ともおもわなかった。ラジオは宮崎放送や大分放送がよくはいった。海のむこうは宮崎や大分だから…黒木知事や銀天街アワーなどよく知っていた。逆に愛媛県の南海放送は山に囲まれて入らなかった。たまに宇和島市へ父に連れられて行くと、「なんという広いところにすんでいるのか!」と思い自分のところが良かった。
中学を卒業する頃になり、友達がみんな就職のため大阪の都会に出ていった。はじめて自分が住んでいるところが狭い田舎であることに気づいた。1958年、昭和33年のことだ。夜は文化放送や毎日放送がはいった。文化放送のS盤アワーとかユアヒットパレードの田中まり子、茂木幹弘を聞いて洋楽の楽しさとラジオの楽しさを味わった。世の中にはこんなに広いんだ世界があるんだと実感した。 スイッチを入れれば好きな音楽がかかる。ラジオは友達だった。
高校を卒業する頃、こんな田舎に住んでいては自分が小さくなってしまうと思い、せめて大学は東京にいきたいとおもったが、高校2年とき就職コースを選んでしまった。農家の長男で就職コースは当然で、農協の職員などになるのがあたりまえであった。しかし自分の夢はアナウンサーになることだった。高卒では受験資格がない。大学へいかなければならない。いまから進学コースも無理だ。放送部でアナウンサーのまねをし「樫元さんはいい声だね~」と女子から言われることがあった。 旺文社の蛍雪時代を読んだら高校の進学コースとかの枠はなく普通に高校を卒業してれば大学は受けられる。 よし、これだ!日大の芸術学部の放送学科を受けよう!でも家にはなんと言おう、私立は金がかかる。東京に行くだけでもお金だ。母に相談した。母はもとは四国の人ではなく静岡の三島の町の人で親子の会話は四国弁ではなく関東の言葉で関東式アクセントだった。母は若い頃、横浜の日産追浜工場で受け付けをし重役の昼食のあとかたづけなどもした。アナウンサーになる夢を子供が実現しようとしていることに感動し、大学にはいればアナウンサーになれると思い独断で山の木を売り、そのお金で入学金をつくった。
柏地区の婦人会で柑橘の先進地視察のため役員がバスで旅行したときの写真で、母は婦人会長として前面の左に写っている。立間地区に行った。愛媛みかんの発生地で選果場などがあった。 試験結果の発表は文芸学科に合格だったがとにかく芸術学部の学生になれるんだ、と喜んで寝台特急あさかぜに岡山から乗った。大きな蒸気機関車がブルートレインをひっぱっていた。四国はそのころ特急がなかった。乗るとあさかぜの車掌から電報です。「放送学科に補欠合格です!」という父からの連絡だった! 私大は補欠合格という制度があるのを知った。
大学で同期の寺村くんはのちにKBSのアナに、吉澤くんはラジオ栃木のアナになった。日大芸術学部の専用バスで夏季合宿軽井沢にて、 やはり私立は金持ちの子が多かった。 母は癌であることがわかった。大学2年の時だ。母は静岡の人だから愛媛に親戚もない、私は休学して母の看病をした。ふるさとに山と海がのぞむ風光明媚なところがある。そこを私も母も眺めたいとおもった。ある秋の日、私はカブ号で母を乗せてそこに行った。山の頂上でしばらくただずんでその風景を見た。足摺国定公園に指定されていた。海の見える風景に「伊豆の風景に似てるね、」と母は言った。 しかし、母はまもなく亡くなった。また日大に行こうとしたが、金がない。大型運転免許をとった。それで大学へ行こうとする計画だった。父からは「もう農業をしてくれ」と言われていた。孤立無援だった。 たまたまふだん聞いている宮崎放送からアナウンサー募集の試験があることを知った。「兄ちゃん、うけてみたら…」と弟がいった。その声に推されるようにして、バスにのり宇和島運輸の小さな客船で別府についた。次は日豊線で宮崎に行った。 宮崎はまっすぐな線路がつづきなんと広いところかな、と思った。 宮崎放送は意外と田舎にあり、駅から時間がかかって集合時間に遅れてしまった。受付の女子社員に言うと「あら君は来たの、愛媛から!」と驚き会場へ案内してくれた。1次試験は150人が受けた。 私は宮崎へ来ることはもうないかも…と思い青島へいった。ひろくて美しい海岸だった。
2次試験の連絡がきた。私は1次で落ちるようだったらもう自分にはアナの資格はないとして父の命令どおり百姓をしょうと考えていた。2次に何人通ったのかきいたら4人とのこと、がぜん頑張ることにした。しかも2次は会社から旅費がでる!1泊の旅館代も会社負担である。そして労務課の人が身辺調査に遠い愛媛の自宅に来るという!さわぎとなった。父にだまって試験を受けたがこうなっては父に話しをした。弓削課長が大分経由で愛媛にきた。遠いところである。タクシーもない村なのでバス停に私が出迎えカブ号の後ろにのせて家に来た。父に「通るかもしれんよ」と私は言った。弓削課長は「まだ大学があるけれど…中退になるけどいいかね、」と聞いた。大型運転の免許もとって東京にいくつもりだが、すべてアナウンサーになることが目的なので、ここでアナになれればそれでよしと返事をした。
宮崎放送は社内の事情でアナが二人辞め、急遽募集をすることになっていた。すぐ使える人を!ということであった。アナというものはなかなかすぐ使えるものではない。すぐつかえる人をつかまえるのは労務の人は大変です。とくに男アナは…東京にいけばいるが、宮崎に来てくれと言われると話はちがう。 ピンチヒッターは素人にはできない。 愛媛のお宅で毎日MRT宮崎放送を見ている人で日大の放送学科にいっている人は願ったり適ったりだ! 母の山の木を売って入学金をつくったお金は見事に実を結んだ。亡くなった母に感謝した。大学を休学して看病したが、むしろそれがアナウンサーの道へつながることになった。試験をうけるときは日大の学生服であった。通ったあとは一人前の背広がいる。父の弟が「俺がつくってやる。」といって八幡浜の洋服屋に連れて行った。店の主人は私を見て「あぁこの人はラクですわ!」と言った。叔父は太っていたので採寸に苦労していたのだ。
昭和40年、入社日は1月6日と決まった。4月1日にたいてい入社日となるのが普通だが…私と吉富くんは違った。急いでいるのだ。 彼は二枚目だ。演劇の方に進んでいる人でありMRTは2回受けて合格したという。下北方町は宮崎神宮のうら手にあり大宮小学校のそばにあった。放送業界はテレビの進出で受けており会社も増築し二階の建物になった。そんな時に入社した。しかしまだテレビは午前中と午後にテストパターン音楽を流し放送は休みだった。夕方から番組を放送した。民放はそんな時代だった。当時JNN二ュースコープのメインキャスターとして活躍したのは田 英夫さん、古谷綱正さん。わかりやすい解説で人気があった。まだ白黒テレビだった。
新人アナの私はすぐラジオ番組を持たされた。「ユアヒットパレード」、日曜昼の洋楽で、担当の小森茂幸アナより前の小田不二夫アナのほうが好きだった。TMにのせて~今どんな歌がヒットしているか!これからどんな曲がヒットするか?あなたのご投票できめるユアヒットパレード、この番組は大正製薬の提供でお送りします。小森アナは上手でも下手でもなかった。文化放送とは比較にならない。愛媛にいたときによくきいた昼間の番組でありそれを自分が担当するとは……ただ高校野球中継をする時は小森アナに前の週に「次の週は野球中継のためユァヒットパレードは休みます。」と入れてもらいたい。なんのことわりもなく高校野球中継をするのはリスナーに失礼だと思った。 私のしゃべりはまあまあだがネタがない。洋楽情報の週刊誌があれば…ない。町に出て西村楽器店や原楽器店によく行ってネタを仕入れた。放送局が田舎にあるとこんなてんで不便である。月刊誌にミュージックライフがある、本田書店にも寄り話題を集めた。週1の50分番組なので地方局はネタに苦労した。洋楽の番組だ。パットブーンやエルビス・プレスリー、ポールアンカ、ビートルズ、シルビーバルタンのアイドルを探せ、ニニロッソの夜空のトランペット、クリフリャード、ザ・ベンチャーズなど洋楽は花盛りだった。
私はしゃべりがあまりとくいでなかった。スタジオで原稿を読むのは得意だったが…アドリブは、苦手だった。プロのアナならできるはずだが、そのことを練習する場があまりなかった。それで自分で河合楽器ビルの7階で毎週土曜日の夜にコンサートを開き原稿がなくてもコンサートができるように訓練した。曲がかかっているあいだは室内の照明をおとした。歌謡曲ベストテンやポップス・ベストテンなどで、河合楽器のレコード部の女の子にレコードをかりてかけた。幕もなく司会者とお客が常時顔を会わせている。隠れるところもない!何回もしているうちに原稿がなくてもだんだんアドリブでコンサートができるようになった。入場無料で会場は河合楽器が無料でつかわせてくれた。もちろん資料下調べは前日までにやっておく、この強制訓練はとても役にたった。6ヶ月間やった。ウィークエンド・コンサーに来たみなさん私の勉強につきあってくれてありがとう、今でも来てくれた子の顔がうかぶ、ラジオ制作部のやかましい三上さんが「樫元くんはアドリブがいいねぇ」と言った。のちにアニメランドの公開録音の時にファンの前に立つと役立った。 それではなつかしいユァヒットパレードの前TMをきこう、1965年の音だ。まだカセットもない時代で10号リールで1時間同録したものが残っている。フルトラック録音でスコッチ製、音質はいい。ふつうは生放送だが、夕方に放送したので同録用の機器があいていたので録音した。
「 ドラムの音! ユアヒットパレード!TM~この番組は鷲のマークでおなじみの大正製薬がお送りします。CM~TM~ ユアヒットパレード年末特集、この時間は毎週日曜に大正製薬が皆様のお葉書によって発表しておりますユアヒットパレードの今年後半の総合順位から発表してゆきます。今年の最優秀歌手男性と女性歌手も発表します。ぜひお楽しみに!なお2時間にわたってレコードをまわすミキサー担当は本田、いつものようにアナウンサーは樫元でございます。では1965年の年間チャート25位はローリング・ストーンズです。得点は1160票、サティスファクション!」
年間チャートの25位、ローリング・ストーンズのサティスファクションを紹介した。パイプラインやビートルズのロックンロール・ミュージック、ビリーボーン楽団の真珠貝の歌、フランスギャルの夢見るシャンソン人形、エルビス・プレスリーの涙のチャぺルなどがこの年のチャートを賑わした。スタジオでひとりしゃべりなので、しゃべりはわりとおとなしい。小森アナがなにかの事情でやめ熊本に帰るので後続のアナを探していた。洋楽のDJとして宮崎弁が出るアナは向かない。そこへ関東式アクセントの私があらわれたということだ。宮崎弁のないアナを探していたわけだ。入社1年目の私の声である。 録音は53年前だ。 スコッチ製のテープの良さがわかる。国産は急ブレーキをかけたりするとテープが延びた。そのてんスコッチは切れた。切れたテープはつなげばいいが延びたテープはつかいものにならない。 よくミキサーの本田秀喜さんと一緒に仕事をした。その頃のレコードはSPからドーナツ盤にかわったころだ。ミキサーに渡すときは何枚ものレコード盤を注意ぶかく手渡した。ドーナツ盤とは欧米のメーカーが主にジュースボックス用に作られたためで、真ん中にアナが開いておりドーナツ盤とよばれたが正式にはシングル盤である。
「私も洋楽のファンでした!」という中須一男さんにあった。本庄高校のとき友達からシングル盤をもらい「霧のカレリア」、ベンチャーズのパイプライン、ビリー・ボーンの真珠貝の歌などよく聞きました。ザ・ベンチャーズがエレキ・ギターブームを作った頃は宮崎市民会館に見に行きました。ノーキー・エドワーズがエレキギターで卓越したテクニックを披露して驚かされました。彼が高齢によりぬけシーガイアに来たときは79歳になっていました。しかしダイアモンド・へッド、ドライビング・ギター、十番街の殺人など往年のテクはさすがでした。と語る。 当時民間放送は宮崎ではMRTだけだった。自社で洋楽番組を作っているのはユァヒットパレードだけで、洋楽の好きな人はよく聞いていた。東京に転勤された小田アナはもともと東京の人だった。文化放送の番組をきいており宮崎でも洋楽の番組を、と願ったらしく題名もユアヒットパレードとつけ自分でしゃべった。小田アナはさすがしゃべりはうまかった。彼のノートを見ると曲名と歌手だけをかいているだけで、しゃべりはアドリブである。人をひきつける小田さんのしゃべりは天性のものだった。高校生のころ私もきいていたが、文化放送の男女のかけあいしゃべりにはおとるけれどなかなかよかった。
これは1965年のユァヒットパードの音盤です。昭和40年です。スコッチ製のテープでいま聴いてもいい音で聴けます。その年の12月に年末特集の放送で夕方5時から放送でした。生放送ですが、録音していました。そのテープを今日までとっておきました。CDにして保存したのです。樫元アナ用と小森アナのお手本用です。入社1年めですが‥気の利いた短いしゃべりでレコードを出す、というDJの鉄則を、なれてくると忘れがちだ。ついひとりしゃべりが長くなりがちなのを気をつけねば‥とおもう、
ところで私はアナが曲名を云ったあと、すぐレコードがかかるのが不思議だった。家庭用のレコードはそうはいかない。プロの不思議だった。それはこうである、プロの音卓のレコードは曲のあたまの05秒まえで急停止をかけておきアナが曲名を言ったあと急停止を解除して45回転をするしくみだ。デンオンという専門メーカー製の音卓の場合05秒後に音楽がかかる。急停止を解除し45回転にもどしてやる装置がプロの音卓にはそなわっている。家庭用にはそれが不用なのでない。急停止のレバーはミキサーがかける。手作業である。音卓の近くで音きいているとかすかに急ブレーキのベルトのおとがする。 私の後任は吉竹アナがやった。彼のユァヒットパレードのファンだった阿部行雄氏が宮日新聞で活躍し、退職の際に「自分が少年時代にファンだったYHPの面影を」いまいちどとテレビで3分間の「ユァヒットパレード」を作った。もともとラジオの番組でありむつかしかったが、私も参加した。懐かしかった。
1971年に「テレフォン・ナイト」が始まった。電リクです。高盛恵子アナがお相手で二人の会話が楽しかった。はじめはまだ電話が直接スタジオにはいってなかったが、そのうち入り、アナとリスナーが生勝負で面白くなりました。ラジカセが発売されそれをかかえて赤電話にならぶ風景がみられました。携帯電話もなかった時代です。電話が使いづらかったり、電話のない人、遠くの人はハガキでも受けつけた。へドバとダビデの「ナオミの夢」、ジェリー・ウォレスの「マンダム~男の世界」、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」などによくリクエストが来た。
電話で話の面白い人をチェックしておき、そんな人から電話がかかると、女性ディレクターから「スタジオのアナと話してみませんか!」と話しかける、「はい」と答えた人の電話をつなぐ、これは女性デレクターの役目だ。声のくらい人などをのぞいておく、女性のほうが向いている。直感勝負で生放送、 電話に出た人には簡単なクイズをしてTシャツを賞品にあげた。 「五木ひろしの長崎から船に乗って…どこについたでしょうか? 答え「神戸」です。」 この電話リクエストが入り放送もずいぶんかわった。女性アナは恋人がわりになり、男性アナはお兄さんとしてテキパキと生放送にあたった。土曜日の夜7:30分からなんと10時まで放送した!電話の受付は宮崎女子高の生徒があたった。受け付ノイズは録音したものを使い2ヵ月に1回替えた。実際には電話のむこうがよく聞こえるような静かな部屋で受付した。
テーマ音楽は初代アナの渡辺アナが構成した。ジミースミスはジャズ・オルガン奏者でWhos Afraid of Virginia Woolf ? を使った。とても合っていた。邦題はバージニアウルフなんかこわくない、斬新なモダンジャズのオルガン奏者だった。 ところで社内移動で渡辺アナから樫元アナにかわった。電話のリンリンという音が効果的に入ったTMはそのまま使った。当時の録音があるので聞いてみよう。1971年のカセットで録音したもので音はよくないが…聴いてほしい。音のレベルは下げてきく方がいい。なにしろ48年まえの録音だ。
「 電話の音、テレフォンナイト!TMジミースミスのオルガンで「バージニアウルフなんかこわくない」。~テレフォンメイツの諸君こんばんは!高盛りアナ、こんばんは!そして恵子ちゃん今晩は!というのも今日が最後で‥なんとなく感無量のところがあるんだけれど、どうですか?感想は?(恵子)なんかねぇ、スタジオへ入る前はそう思わけはなかったけど‥、悲しくなっちゃう‥(樫元) そうねえ、ずい前から皆さんにもいろんなことを手伝っていただいたのだけど、楽しくやってきたのだけど恵子ちゃんは今週が最後です。それから今日の関係者は、プロデュサーはせっちゃん、ミキサーは黒木さん、レコード室は伊地知友子さんと宮崎女子高校のアルバイトの皆さん、スタジオの奥にはせっちゃんが入れてくれたとってもキレイなフリージア、黄色い花でね、香りがとってもいい、いま皆、ダイアルをまわして頑張ってる諸君が多いと思うんだけど、この番組は9時半まで受付で、宮崎23局の4114です。ダイアルは23局の4114です。 この番組はシグナル・チェーン、日立家電、パイロット宮崎うきわ会、吉田レコード店の提供です。」
当時中学生でのちにニッポン放送に入った兵頭くんは、このリズムの良さは原音の一部カットしてつかったはずと気づき私に原音のCDを送ってきた!そのとおりだった。くわしい!延岡でテレフォン・ナイトをきき将来は放送の道へすすもうと考えいた兵頭くん、系列のフジテレビで映画の紹介などもしている。 まえ文化放送で夢中になったS盤アワーやユァヒットパレードが私の頭の中にあって、ローカル局といえどもそのレベルまで放送を楽しくしたい、と心の中で決めていた。
私も高校の時以来MRTファンです。ですから30年以上になります。私が聞き始めたのは「テレフォン・ナイト」という番組でした。そうです。いまでも若々しい声の樫元アナウンサーと、高盛恵子さんでした!あの下北方のスタジオにも見にいきましたよ、まだ道路が砂利道のころでした! 清武のミー太郎です。
ところで宮崎放送ははじめから宮崎放送とはいわなかった。1961年までは「ラジオ宮崎」といった。ラジオ専門の放送局であった。RMKといった。岩切章太郎さんや多くの方が運動して下北方858番地に局社を建てた。ラジオだけであり経営的には苦しいものがあった。それがテレビ放送がはじまり1961年名称を宮崎放送とかえて以後順調に発展した。呼び名もRMKからMRTへと変わった。ラジオ専門の時代をしる古い人には「ラジオ宮崎」といった方がわかりやすい。私も高校時代は「ラジオ宮崎」と呼んでいた。小田アナのいる当時のRMKが好きで、自分のメールアドレスもrmkにした。 858番地は888とした。ラジオ宮崎のよび名と似ている。ので気にいっている。孤立無援の青年だった私に宮崎へという光をあたえてくれた弓削課長やその他の人の縁をわすれない。
ここまで読んだファンのいづみさんは、「もし樫元さんがMRTのアナ試験に通らなかったら、アニメランドもわくわくゲームランドも無くて、東京の人気声優さんも宮崎にあんなに来ることはなかったでしょうに、ホントに不思議なご縁ですね。と言った。 さらに私が「私が生まれたのは九州です。」といったらおどろいた。 父の仕事の関係で福岡県の門司にいた時、私が生まれた。終戦後愛媛にかえり父は農業をした。記憶はないけれど生まれは九州です。九州男児です。宮崎に来たとき自分のふるさとにかえった安心感があり、仕事で大活躍したのもなにかの縁でしょう。 愛媛は土地がせまくそれがなんとなくイヤだった。広々としたところがいい。宮崎の自然は自分に合っていた。青島で見た広い空と砂浜がウィンドサーフィンが趣味の自分にピッタリ合っていました。人をけおとしてまで出世するタイプが嫌いで、競争はせずにのんびりと風とたわむれるウィンドサーフィンが好きだった。秋になって「海にうさぎがはしるようになると」ウィンドサーフィンが風にのって走った。海に兎がはしるとはサーフィン仲間でいう言葉で、風がすこし出て、まるでうさぎが走るようにときどき白い波が出てくる状態をいう、WSFには絶好のコンディションだ。
あれから40年が経った。ここに一枚の写真がある。京都で、日芸の日本大学芸術学部放送学科の三人です。
青雲の志をいだいて宮崎へ行った青年の私と、同級生の寺村くん、吉澤くん。 定年後に京都で会いました。いずれもアナをめざし近畿放送と栃木ラジオにいった二人です。勉学の途中で大学をはなれ宮崎放送に就職した私の三人が近況をこころゆくまで話しました。
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