スピーチのために話材をいくつか集める作業をするのが日課になった。のんびりしていると週一の講習なのですぐ次が迫る。新聞のスクラップだけでスピーチを構成するワンパターンをさける為、週刊誌などにも目を通すようになった。新聞とは違う取材や表現があって面白い。

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くり返すようだが、3回はスピーチの順番がまわってくる。ということは3話用意しておけばいい、というものではなく、時間の経過都合で、先生が「では最後に1分のスピーチを、」と言われたりするので4話用意しておかねばならない。

2000円の品物を買いに店に行く時にサイフに2000円だけ入れて行ったなら不安がよぎる。予備というものは必要だ。そうなると心おだやかに講習に臨むには5話必要ということになる。かなりのハードトレーニングだ。

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「話には表題が必要」

昔、テレビ番組に「題名のない音楽会」というのがあった。それが表題なのであって、実際に表題のない作品というのはない。「無題」でも題である。
私たちの会話では、「今から□□□について話します。」と表題を宣言してから話すことは皆無である。これは友人や家族関係など限定した仲間内での会話だから省略が成り立つのであって、会社や仕事関係、小会合などでは状況が違う。

「□□□について説明します。話します。」とハッキリ述べてから話し始めることが必要である。でないと、話し手が何を言いたいのかを聞き手が探ることになり無駄なエネルギーを使わされ得策ではない。
表題をつけることは、その話の要点をしぼることにもなり、話し手自身にとっても話の展開と整理にとても役立つ。

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写真はタイマー。指定の時間内にスピーチを完了させるための練習をするときに役立つアイテム(小道具)である。セットしておくと指定分秒でピピピ~と鳴る。家庭の料理用などの商品。考えてみればスピーチは料理と似た点が多い。私の話はたいてい時間オーバーしている。ナベなら焦げ付くので要注意だ。

3回目ともなると周囲の状況や講師陣の人柄もわかり、だいぶ気持に余裕が持てるようになった。そこで親しみの意味で講師陣に「愛称」をつけることにした。もちろん私が一方的にそうとらえているだけで、実際に口に出したことはない。

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  ・ダンディ・パパ、これは□□□□先生のこと。
  ・マドンナ先生、これは□□□□講師の愛称。
  ・上六の亜弥々、これは□□□□講師の愛称。
  マドンナというのは歌手ではなく夏目漱石の痛快小説「坊っちゃん」に登場するマドンナのことである。
ダンディ・ハパの予告によると、もしかしたら客室乗務員卒の女性がこのインストラクター講座に他クラスから転入するかもしれないとのこと…ガセネタでないことを祈るのみ!厳しい中にも楽しさのある教室である。

この種の「話し方講座」をインターネットで探せば通信教育システムによる教材はある。それらを学べは「頭での理解」はできる。しかし実践の場に欠けるので目的は達成しにくい。この「話し方」分野は体育系のクラブにも似て「理屈よりも実践」が重要だ。数多くスピーチの場を積み重ねていくうち「話すことのコツ」がのみ込める。いくら理屈がわかっても実践できなければ意味がないのだ。

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1回に5話程度のスピーチ材料を集めるのは大変だが、そのつもりで周囲を見ていると「話になる材料」は案外身近な所に転がっている。これまでいかに漠然としか周囲を見ていかなったかを思い知らされる。
常に「これは話材にならないか?」と探すことは〈観察眼〉を養うことにつながる。しかしその話の結論に自分の意志がこめられていない話は単なる「紹介話、報告」の類でつまらない。それなら書物やインターネットで足りる。

話の中に、そして結論に語り手の意思や強い熱意が込められていればこそ「共感」や「説得」に発展するのだ。そうなると「話し方」は話し方にとどまらず、その人の人間性を吐露することにつながるともいえる。しゃべることで自分の頭の中身や性格までもが相手にわかってしまうのは、こわいような気もする。