私らが子供の頃、1950年代(昭和30年代)は、どんな遊びをしていたか憶えていますか?当時は熱中した遊びも、いつの間にか忘れてしまいましたね。ラジオでは「上海帰りのリル」とか「赤いランプの終列車」が流れていた頃です。ファミコンとかテレビのない時代でしたから、なんでも自分たちで「遊びを工夫・考案」して遊んでいました。
陣取り、縄跳び、かくれんぼ、カンけり、ケンケンパー、十六文、トッカン(突貫)とかいう地面に線を書いてそこで遊ぶ競技みたいなもの、パン(パッチン)などスポーツ的なものから、野原でワナかけや、鉄砲つくりなどなんでも手作りで遊びました。
鉄砲といっても杉の実や榎木の青い実をタマにして竹を筒にした「鉄砲」で飛ばすのです。飛ばすことより「それを作ること」自体が楽しかったものです。
「ナイフ」 当時の男の子のポケットにはかならずナイフが入っていました。「肥後の守」というやつです。それで竹や木を切ったり、すべての遊び道具を作るのです。いつも入れておくのでポケットに穴があき、そこからナイフがなくなることがありとてもくやしい思いをしました。のちに「ポケットに常時入れておくと転んだ時やとっくみあいをした時などに危険、筆箱に入れておくならいい…」と学校から規制され、所持品検査というのが突然あったりしました。そんなことからナイフを持ち歩くのは「不良」みたいに言われるようになりました。田舎の少年にとってナイフは命の次に大事なアイテム(小道具)でした。あれがないと野原へ行っても何もできません。「安全」ばかり考えていると冒険心を封殺してしまいます。「肥後の守」というから調べてみたら、鹿児島から持ち帰ったナイフをもとに兵庫県の三木市で鍛冶屋が多く「肥後の守」と命名したという…
「チャンバラ」 男の子ですからチャンバラをして遊びました。竹棒を持って野山をかけまわるので冬場の遊びでした。刀の代わりに竹棒を持って数人で「試合」します。ただ刀をふりまわすだけではなく、なにがしかの「ストーリー」を背景にしてチャンバラをすると楽しいのです。いわゆる「ごっこ遊び」です。よくやったのが、岩見重太郎という剣豪とそれを倒そうとする敵、とか「月光仮面と悪者」とかの想定があって、いい役はいつも年長のガキ大将(川上のひーやん)がします。私らはその敵役で最後にはかならず殺されて死ななくてはなりません。そういうガキ大将に都合の良いシナリオで遊びます。それに不満でも言おうものなら、「もう遊んでやらん!」と村八分にされます。子供にとって遊び相手がいないのはとてもつらいのでイヤイヤながら従います。
このチャンバラをする時は、まず、刀がわりの竹を切りに川岸へ出かけることから始めます。青い竹をナイフで切って大刀、中刀、小刀と三本を作ります。大刀が持てるのはガキ大将だけです。年下の私らはせいぜい中刀、小刀のみでした。メダケで川竹でイネ科になります。すらっと細い竹でナイフで切れ、ちょうど子供がもつにはふさわしく刀の代りになります。チャンバラにはかかせません。
前述のように年下の者は年長のガキ大将に勝ってはいけません。いわゆる「負け役」キャラとして遊びが成り立っているのです。
だから次第におもしろくない顔をしていると、大将から「次はお前に勝たしてやる…」と言われて、良い場面をたまにはやらせてくれました。
「月光仮面」 の時は主役のひーやんが大きめの風呂敷の端を首に結んでマントのようにします。そしてわざとすこし高い所から飛び降りて風呂敷をひるがえして月光仮面になりきります。私らがその格好をすることは絶対に許されません。「自雷也」とか「霧隠才蔵」など〈忍術もの〉をする時は、お決まりの「忍術ポーズ」をしたら姿が消えることになっています。姿が消えていますから実際は相手が目に見えていても刀で切ってはいけません。ルール違反です。私らも「見えないふり」をするというややむずかしい遊びでした。
これらのシナリオ設定は当時人気の「少年画報」のマンガから彼がヒントを得た「ごっこ遊び」でした。ガキ大将で無敵のひーやんでしたが、彼の弱点は「母上に怒られる」ことでした。畑の土手などで月光仮面ごっこなどをしていると母上から〈畑で遊んだらいけんがあ!〉と一喝されます。すると首をちぢめてすごすごと物陰にかくれる意気消沈ぶりはそれまでの威勢の良さにくらべて極端でした。
このチャンバラに飽きたりすると、女の子たちの「ままごと」遊びをひやかしに行ったりしました。ムシロを敷いた日当たりのいい場所で、大きい貝殻をお皿がわりにして、上に花などをおかず代わりに載せてチマチマとやっています。そばに行くとたいていはイヤがられましたが、たまには「お客さんになってよ、」と歓迎され、刀を置いて正座するガキ大将の姿がありました。
あのヒーやんは今どこで何をしているでしょうか?彼が中学を卒業して大阪の鉄工所に就職して2年後くらいのお盆休みに数日帰ってきましたが、色白になってものも言わずまるで魂が抜けたようなおとなしい人にかわっていたので驚きました。あの威勢の良い「ひーやん」はどこえ行ってしまったんだろう…都会という所はひーやんの魂まで抜いてしまう恐ろしい所かもしれない…子供心にそう思いました。
この「ひーやん」とか「成宮のあきちゃん」とか、子供の頃一緒にあそんだ相手のことは、その場面を鮮明に憶えています。
「リム転がし」 手作り遊びとしては、「リム転がし」というのもありました。古く棄ててあるような自転車をバラして、タイヤを保持する金型(リム)だけを取り出し、そのリムに竹の棒をあてて押しながら走るのです。砂利道なので案外と不安定で長く走れないものでした。勢いをつけ過ぎるとリムだけが独走して溝に落ちたりしました。似た遊びで樽の枠に使われている竹枠だけを使ってリムのように転がして遊びました。この場合は竹棒にV字型の小枝を短く残した竹棒をそれにあてて転がしました。いずれも器用、不器用がよくわかる遊びでした。
それから春先には「はちまん」というクモを土手などで採り、短い棒の上で戦わせる遊びもしました。春先になると畑の土手や石垣に「はちまん」というクモが巣を張ります。
私らは「はちまん」と言っていたが、正式には「コガネグモ」です。このクモは闘争性が強く、他のクモや小さい蛾などがアミにかかると白い糸を吐いてクルクルと丸く絡めてエサにしてしまいます。この動作は機敏で喧嘩早いことから戦いの闘将「八幡」のあだ名がついていたのでしょう…。
春の休日などに畑の土手などでこの「はちまん」を探して歩きます。小さなクモですが、はちまんの巣アミは中心部にX字型の「かくれ帯」という白い模様があり、その中心部に陣取っているのですぐわかります。なるべく大きな「はちまん」を小枝にとって歩きます。大きい「はちまん」を採取した子供は、周囲から、「あら、大きいはちまんやねぇ~」と賞賛されます。もちろん本人も得意です。
その集めた「はちまん」を闘わせます。40㎝ほどの細い棒の両端に二匹の「はちまん」を載せて、尻をつつくなどして棒の中心部で闘わせます。闘争性の強いクモですからはげしく渡り合い戦い、弱った相手をクモの糸で絡めてしまったほうが勝ちというわけです。あるいはみずから落下したのも負けです。この戦いは結構面白く、大人も見物してはやしたてるほどです。強い「はちまん」を持っていると鼻が高いのですこしでも大きな「はちまん」を探して歩いたものです。
この「はちまん」は、その後水田の防虫剤散布などのせいで姿が減ってしまい、いつの間にかすたれてしまいました。四国南部の四万十市や鹿児島県の加世田市では現在もコンテストとして存在しています。
「ゴムかん」 野山にあるアカメガシワという木は枝が同じところから左右にV字型に分かれて伸びます。そのあたりをナイフで切って、V字の先端にゴムひもをつけて弓のように引き小石などを飛ばして遊びました。ゴムかんの「かん」は操縦桿などの「桿」をさすものでしょう。これでスズメなどを撃ちましたが当たることはなく「ドキドキ感」だけが楽しかったです。
「ハゴ」 冬の子供の遊びの定番です。男の子は冬になると野山に「ハゴ」を架けに行きました。それで野鳥を獲るためです。寒くなって木の実がなくなると野鳥が地面に落ちている実などを食べる習性を利用してワナを架けます。時々シナイ(ツグミ)やチャッチャが獲れました。チャッチャというのはウグイスのことで、春の交尾期はホーホケキョと美声で鳴きますが、冬場などふだんは地味にチャツチャと鳴いています。うす茶色のスズメみたいな小鳥です。あれがウグイスとは当時まったく知りませんでした。
「トッカン」 よく運動場で朝はやめにきた男の子が絵を描いて「なか」と「そと」にわかれてトッカンといいながら陣をとる冬の遊びでした。体があったまってよかったです。タッチされないようにすばやく動いて場所をとります。見ているよりもするほうが楽しい遊びでした。名前はトッカンではなくてほかの呼び名だったかもしれない。
「パン」 このパンというのは菓子パンのことではなく、手製のパッチンです。官製はがきを縦にハサミなどで二分割し、組み合わせて正四角にします。ジャンケンをして負けたほうがまずそれを土地の上に置きます。上から自分のパンで強く打つと衝撃と一瞬の低圧で相手のパンが飛び上がり裏がえることがあります。裏返せたら勝ちです。その相手のパッチンを自分のものにできます。この遊びは右手を強く振ってパンを打ちつけるので長くやっていると手が疲れました。しかし相手のパンを獲得できた時はうれしかったものです。小学校低学年の頃の遊びです。
「クギうち」 これは五寸釘を磨いて地面に打ち込み、先に打った相手のクギをうまく倒して自分もものにする遊びです。土によく刺さるように研いだクギを(ポケットに入れて)持ち歩くのが危険とかで、のちに禁止されました。
「ラムネ」(ビー玉のこと)
これは炭酸清涼飲料水のラムネ水に入ってるガラス玉を遊びに使ったことから「ラムネ」と言った。実際は同様のガラス玉が文具や玩具店などに売っていた。きれいな模様つきの玉もあった。遊びかたは、まず一個ラムネを土の上に置く。相手は目の位置から玉を垂直に落とす、地上の玉に当てれば自分のものにできる。まれに地上にラムネ玉を二個並べ、そのまん中に落下させて、二個とも弾かせると、二個取れるという高等芸もあった。これをくりかえして玉を取ったりやったりする。これが流行した頃は男の子のポケットにはラムネ玉がごろごろしていた。関東地方では「ビー玉」というが、これはガラスをビードロというポルトガル語から、ビードロ玉がビー玉になったという説がある。
ラムネは明治初期に輸入された「レモネード水」が和風発音で「ラムネ」になったといわれる。炭酸ガスの圧力を利用して栓をするため独特のカタチをしており、かつてはサイダーと並んでソフトドリンクの王者だった。今でもレトロなスタイルと味を珍重するマニアがいる。私のその一人だ。
まえ奈良井の宿(長野県)という昔の宿場町に立ち寄った時、そこのみやげ品店でラムネを買って店先の長いすに座って飲んだ。レトロな街道にぴったり合うなつかしい味だった。