女の子の遊び

昔、女の子たちがどのような遊びをしていたか、ままごと、ゴム跳び、おはじき、などが思い浮かびます。これらの遊びを「当時の女の子」からきき、私の記憶の中に残っている情景を思い出しながら再現してみます。

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「ままごと」
女の子の遊びの定番である。春や秋に陽だまりの風のこない場所にムシロなどを敷いて女の子数人で遊んでいた。たいていは家庭の食事場面をまねて、お母さん役や子供役に分かれて、野原の草花や木の実などを採りそれを「料理」してふるまう…という場面が多かった。調味料というのもあって、それは乾いた土をとり「しろっぱ」という草の葉の裏がギザギザ状になっているのを利用し、そこに土を載せてゆるやかに流し落とすと、あとに粒子のちいさな土が葉について残る。それをトントンと振り落として粒子のちいさい砂を集めて「砂糖」や「塩」に見立てた。泥を練って「お団子」に想定、「食べなはいや、」と言ってふるまったりした。食べる側の子は言われたとおりに、そのものと思って食べるマネをする。と、当時の女の子が詳しく私に語った。

広めの葉などを皿がわりにして中心に置き、主役(お母さん役)の女の子がセリフつきで動作をして、その場を仕切って遊ぶ。このセリフが実の母親にそっくりなので笑いをさそった。子供は見てないようで親のしぐさを詳しく見て憶えていることがわかる。脇役は近所の友人だったり、お客だったりする。たいていは「ごっこ遊び」なので、母親のふりをしてなりきって遊ぶ、しかし幼少の子供はそのまま幼少の子供として待遇する。「ままごと」のままは(まま→飯)が語源とする説もあり、家庭生活の基幹をなした食事場面のまねごとだった。

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「ごっこ遊び」の一種だから、途中から食事場面プラス「お人形さんごっこ」になったりしていた。昭和20年代中頃は、あの「リカちゃん人形」が登場する前であるから、適当に座布団に手ぬぐいをかぶせて「赤ちゃん」にしたり、おしめを替えたりの素朴なものであった。女の子は幼少の頃から「女の子の役目」みたいなものを認識して、それを楽しんでいたことがわかがえる。

「ごっこ遊び」の一種だから、途中から食事場面プラス「お人形さんごっこ」になったりしていた。昭和30年代中頃は、あの「リカちゃん人形」が登場する前であるから、適当に座布団に手ぬぐいをかぶせて「赤ちゃん」にしたり、おしめを替えたりの素朴なものであった。女の子は幼少の頃から「女の子の役目」みたいなものを認識して、それを楽しんでいたことがわかがえる。

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「ゴム跳び」(一寸跳びとも言う)
これも庭でよくやっていた。はじめはゴムの位置を足のくるぶしくらいに設定し誰でも跳べる低さから始める。この位置を次第に高くしていく。しだいに幼い子はとぺなくなる。ついには胸の高さあたりに設定すると跳ぶほうも工夫して「逆あがり」みたいな跳びかたでこれに挑戦する。モンペ姿の子はいいがスカートの子は跳ぶ時にパンツが見えるので、周りの男の子からひやかされることがあった。ゴム跳びは基本的に女の子の遊びなので、男の子がこれを見ていると顰蹙の眼差しをあびた。
「一寸跳び」とも言うのは、ゴムの位置を一寸(3㎝)きざみに上にあげていくことからそう呼ぶ。正確に一寸ではなく、すこしずつ位置を上げていく。

似たような遊びで男女共に遊んだのが「縄跳び」だった。これは長い縄を二人でグルグル廻し周期をみて、その縄に当たらないように反対側にくぐり抜けたり、縄の輪の中でピョンピョン跳び上がって「滞在時間」を競ったりして遊んだ。

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「おはじき」
今は民芸品の飾りものとして存在するが、昔は女の子の遊びの道具だった。3人から4人程度で縁側や畳の上でする遊び。室内だから雨の日や外が寒い冬などでもできる遊びだった。一人が5個以上おはじきを出し合い、はじめジヤンケンで親になった人がそれをまとめてバラ撒く。
当てようとするおはじきの前に指で線をひいた後(これを仕切るという)、指で弾いて当てて取る。勢いが強すぎて他の玉まであてた場合はミスとなり、次の人に代わる。これをくり返して、たくさん取った人が勝ちとなる。最後に一個残った場合は目をつむって指を玉の周りを三週させ、指をふたつに開いて手前に引き、その玉に触れなかったら自分ものとなる。こまかいルールのある遊びである。

「竹とり」
これは青竹を割った竹材を道具した遊び。青竹を20㎝程度に輪切りにしたあと、縦に幅1㎝程度に割る。厚さは薄めにする。きれいにカドを取り滑らかにし手でさわっても傷つかないように仕上げておく。これが遊び道具だ。遊びかたは、片手の中に握れるほど握り、少し上にほうり上げて手の甲で受ける。それをもう一度上にほうりあげて今度は手の内側でつかみ取る。
手の甲で受ける時に竹材はかなり落ちてしまうが、最終的に何本つかみ残すかを競う遊び。たくさんつかみ残したほうが勝ちである。シンプルな遊びだが、竹を手の甲で受けるときに衝撃をへらすような手加減が必要で、パランス感覚というか運動神経の良し悪しが問われた。遊びというのはかならずルールがあり、それを守ったら参加できる、ということを子供に体得させる場でもあった。

一人で遊べるものとしては当時の少女雑誌の付録によくついていた「ぬりえ」がある。
この絵柄で昔にタイムスリップする女性は多いだろう…。これも色をぬり終わったら友達と「見せあいっこ」をしたりして楽しんだ。この「ぬりえ」は当時大流行した。
色をぬり易いように顔、手、足などの面積は大きめにデフォルメ(強調)されていた。髪型はカールした洋風が多かったが衣装は和/洋なんでもあり。生活場面はハイカラ(これも死語だが)な設定が多かったように思う。

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人物だけでなく、背景のタンスや鏡台などにも色をぬった。代表的なのが「きいちのぬりえ」で、「お絵かき」の素材ながらその芸術性が近年見直され、各地で美術展の開催やコマーシャル素材として登場するなど再評価され、熱烈なファンも多い。

  (この項の資料提供、小島絹代、樫田ナミ子、瀧岡カツヨ)

還暦を過ぎた年齢の人が幼年期を過ごしたのは昭和20年代の中頃である。戦後の混乱も終息に向かい困窮な生活の中ではあったが、子供たちは元気に成長していた。ベビーブームで周囲に子供が多く、互いにさまざまな手作り遊びを楽しんだ。まだテレビもなく、ファミコンもない時代だ。むしろそのほうが子供たちの自由な発想や感覚の育成に良い環境であったと言える。当時の女の子たちから寄せられた話をもとにここに書く。

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「お手玉」(おじゃみとも言う)
手で握れる程度の小袋を親に縫ってもらい、その中に「じゅず玉」を入れる。これは川原などに自生する笹竹のようなイネ科の数珠玉草の硬い実が材料となる。この実は名のとおり「数珠」のような光沢があり格好の手芸品だった。色は黒茶色が多い。これを採取する時は気をつけないと完熟したものはパラパラと落下する

このため手をそっと下にあてて、こぼさないようにして採った。これを袋に詰めるとサラサラとよい音が響いた。この「お手玉」で遊ぶ方法は、歌に合わせて次々に片方の手から上にほうり回転させるように巧みあやつる。自分の熟練技をみせるもので、対戦するというものではない。歌は童謡のような短いフレーズ(節)をくり返した。

このじゅず玉は中心に糸がとおる程度の細い穴があいている。それを利用して木綿糸などを通してネックレスや腕輪を作った。前述のように光沢のあるきれいな硬い実なので、辛抱つよく作れば誰がやってもきれいなアクセサリーになった。中にゴムを入れて綴ると腕にピッタリなじんだ。

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「あやとり」(綾取り)
長めの毛糸を結んで輪にする。それを両方の手の指にとって拡げる。絡めたり抜いたりして、はしごとか箒とかのカタチを作ります。作り方は簡単ではないので先輩から必死で習いました。うまく完成した時は周囲に見せて得意になりました。操作が10本の指でたりないときは口まで使いました。そのパターンを何人かで取り合って変形させたり、より複雑なカタチを作ったりして遊びました。器用な子はいろいろ作品を作れて賞賛の眼差しを集めたものです。

「てんまり」
ゴム鞠つきのこと。女の子はそれぞれが愛用のゴムマリを持っていた。これを男の子に隠されると泣いて本気で抗議するほど大切なものだった。手鞠がてんまりになったもの。小学校低学年までの女の子の「スポーツ」の定番といえばこれ。遊びかたは単純だが、つくテンポに合わせた歌があった。慣れた子は早めのテンポで唄いながら鞠をついた。

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はじめは易しいように足の間をくぐらせるが後半は股の間をくぐらせたりして難しくする。最後は背中でおんぶするように受けとめたり、それができない子はスカートの中でとめたりしていた。
競技ではないが、何回つけたかを競うために、つく度に大声で数字を言ったりにぎやかだった。
庭などで赤やピンクのゴムマリを手でつきながら遊んだ。かなりエネルギーを使い体が暖まるのでどちらかといえば秋や冬にこれで遊ぶ姿があった。つくときの「伴奏歌」を今でも憶えている人がいたらぜひ教えてほしい。
「いのこ」(亥の子)
これは男の子の遊びですが、ついでにここに書いておきます。
11月中旬の亥の日に夕方から男の子たちがグループを組んで、「亥の子石」という丸い石に縄をつけてそれをかかえながら地区の各戸を周り、八方にひろげた綱をひいて、はやし唄と共に搗きます。これは家の倉などに穴を開けるモグラ退治や、豊年祈願などの恒例の行事でした。はやし唄は3種類程度ありましたがシンプルなものを憶えていますので書いておきます。

「亥の子~亥の子~祝うた人は~ 」
「イチで俵ふんばいて、ニでにっこり笑うて、サンで酒を作って、ヨッつ世の中良いように、イツツついつもの如くなり、六ッつ無病息災で、七ッ何事ないように、八ッ屋敷を広げて、九ツ小倉を並べたて、十トゥでとって納めた~エぇぇイ!」と拍子に載せて縁起の数え歌を唄います。この行事は各地にありましたが、はやし歌は地域によって違うようです。

この地鎮祭みたいな風習で庭にできた凹穴は神聖な所となり、雨が降るまでは土足で踏んではいけない…と言われていました。ましてやそこにオシッコでもひっかけようなら「チンチンが曲がるで~」と言われこわかったものです。
  亥の子を搗くと各戸から「お礼の小銭」がもらえました。それをまとめてから分配、お小遣いにもらえるのが楽しみでした。一部は米にかえ、それで世話役の家で「炊き込みご飯」を作ってもらいおにぎりにして食べました。樫田時広さんとこのおばあちゃんが世話好きで、そこに集まって食べました。

この風習もすたれてきましたが、現在もなお宇和島の一部地域では実施しているそうで、それには女の子も参加しているそうです。地域の共同体意識の薄くなった今日、このような行事は復活してほしいものです。