風が海面を通り抜けてゆきます。ふるさとの村 柏 おさない頃に夏休に黒くなって水泳した小川、トンボとりやアケビとりに、そして冬はメジロとりに遊んだ野山…小年期のおもい出がいっぱい。
ふるさとの村、柏 きれいな海と山にかこまれた自然の美しい所です。いまは立派な道路やトンネルが抜け真珠養殖により豊かな村になりました。私が中学生の頃は、段々畑で半農半漁のくらし、海ぞいの曲がりくねった砂利道をバスが窮屈そうに通るへき地でした。 その頃は海が透きとおるようにきれいでした。ことに五月の麦が実る季節は青い鏡のような海面に、柏崎の段々畑の黄色が写り、まるで印象派の絵のようでした。麦秋の季節でした。労働は大変なものでした。段々畑の畑作も昭和60年代には終わりをつげました。真珠養殖の栄華もきえ昔の村に戻りました。役場がきえ支所になり村も町になりました。
私が高校2年の時、大阪で働いている浜田義勝くんが冬に帰ってきて写真をとってくれた。町で働いていると田舎の景色がなつかしい、といって何枚か撮った。 弟の隆と母が普段の格好のままカメラに写った。母の笑顔が 「ほら、お母さんより背がちよっとたかいよ、」と隆が喜んでいる。
私が中学生の頃、弟妹そろって写った数少ない写真。 春、畑に桃の花がきれいに咲いたので、それを背景に父が撮影した いつも厳しい父なので子供が緊張して直立不動で写っている。 宴席以外では笑顔を見せることが少ない父だった。 昭和37年の冬の日のこと。母は病気で「がん」になり小康の日に写真をとった。写真の裏に自分の筆跡で書きのこしている。長女 節子小五、長男 洋日大放送学科、次男 朗中三、私四十二才 というメモがある。隆は中学の野球部の練習だった。 四人の子供おいてさそかし心中は無念だったろう。
母の亡きあと父から 「お前は長男だし百姓をやってくれ…」と言われた。その頃テレビで宮崎放送のアナウンサー募集があった。日大芸術学部放送学科で仲間だった友人に会ったのは、それから何十年もたってからだった。放送局の職員名簿で近畿放送に一人いた。やはりアナだった。もう一人はラジオ栃木でアナをしていたが家の都合でやめ、いまは医療関係のプロパーの仕事をしていた。
三人が会ったのは京都だった。なつかしくてお互いの今境を語り合った。私は中途で学業をやめ放送局に入ったが、みな放送をしたいという気持は一緒だった。今のように放送局は多くなく大変な倍率だった。「わが子をアナに!」という母の願いは叶えたが、そのとき母は亡くなっていた
濱田のおばちゃんが阿弥陀さまの浄土に還りました。100歳でした。柏の農村の吉良ノ丘に住み私が幼少のころは遊んでもらいました。美子ちやんとナミちゃんと私が同級生です。
この写真は柏のお祭りに私が宮崎から帰った時です。ビデオカメラで祭りをあれこれと撮影した。1999年の秋だ。五ッ鹿踊りや獅子舞、四ッ太鼓、牛鬼、神輿、巫女さんなどをしたがえて金峰神社の御一行がとおる。11月3日の祭日だ。村をあげてのお祭りだ。
ところで柏の同級生が沖縄へ旅行にいった。沖縄は本土よりだいぶ南だ。楽しかった。