~「満洲」に別れを告げて~

 日本から満洲へ渡った人は多い。果てしない夢をみて…。子供は五歳。お母さんは理容店、お父さんは営林署の仕事をしていた。お手伝だい女の子は店の仕事を手伝っていた。特に冬はストーブに火をつけるのが大変で石炭に火をつけるのに一苦労していた。昭和20年敗戦の噂が濃くなった。「そんなバカな!」と言ったが、ある日軍隊が突然きえ噂は本当だった。日本が負けた!

 満洲が崩壊した。とるものもとり合えず日本に帰ろう!延吉の駅に集まったがソ連軍の銃声が飛び交う中です。父の連絡はとれず、母と子三人は胡蘆島めざして出発しました。長い長い「ひき上げ列車」の旅でした。ここで母と二人の子は病にたおれ、五歳のわが子の前で息をひきとりました。

胡蘆島で偶然、お手伝の娘とめぐり会いましたが、「小さい子は可哀そうだが現地の子にやった方が…」という隊長の言葉もあった。20歳の私は「わたしも帰る~」と泣く子の声をきき、ついに二人で船上の人となった。

 「引揚げ船」で長崎につくとそこはあこがれていた昔の日本ではなかった。鹿児島の20歳の若い娘が五歳の子を連れて帰った…と引揚者のかけぐちをたたかれ、しかし日向市の親類に渡すまではと耐えた。五歳の娘がその後、親のように親しむのは当然でしょう。あの時コロ島でたしかに聴いたのです。「縁ありて、生命あずけます。」という言葉を…

 そして平成15年5月、末吉町のお宅で「話しを聞いた」。すべての事がわかったと娘はうなずいていました。引揚げ船でのことなど「全部ききたいと思っていた。すべてわかった。ほんとうにありがとう!」と安堵していました。私は縁あって二人の話をきいた。現在は二人とも夕陽の彼方にいってしまったが、中国から引き上げ者が人にいえない苦労をした事が伝わってきた。