四国の宇和海ぞいの村に住む歌人、松本 榮のことである。 「歌集・柏坂」。四国の遍路道、柏坂を表題にしたこの歌集は、生活の日々の哀歓や郷土の美しさを素直に語ってくれる。朝日新聞「折々のうた/選者大岡 信」欄でもいくつか紹介されているが、平成16年に歌集にまとめたものを手にして、その秀作の数々に驚いた

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凪ぎわたる豊後水道一握の宝石投げたる如き漁火

高空に村民運動会の声援の折々聞ゆ臥所にひとり

猫を呼ぶ隣人の声に返事しぬわれも誰かに飼われいるか

雑踏の街より帰り溢れ咲く蜜柑の香り深ぶかと吸う

何時になくやさしき言葉言い残す帰省の息子の発ちし朝焼け

 

高校の入試の出来を孫に問えば「微妙なとこだ」と屈託もなし

呼吸器をはずせし顔の刻々と黒ずみゆけり嗚呼義弟よ

「鳩に餌をやるな」と書かれし病窓に止まりて首振る鳩の愛おし 

五人姉妹の四女に生まれしわれなれば男子望みて榮と名付く

子を背負い婚家去らんと砂浜に海を眺めて戻りし彼の日

 

男の胸に顔を埋めて泣くことのわがなかりしと画面に見入る

手と足がかなわずなりては果すまじ五十年秘めし君の文焚く

「其処のおばあさん」とガン検診の技師が呼ぶわれと気付くに少しの間あり

温かき言葉つづれどワープロの手紙は冷えし味噌汁の味

線路なき山峡に生まれ住むわれは場末の駅にも時に憧る

 

若き日に恋せし神田神保町あこがれの地に子は勤め持つ

総理より戦地勤務せし看護婦に感謝状受く五十三年目にして

葬り終えし夜の玄関に亡き夫の踵の禿びし靴が残れり

救急車に夫載せし時漠然と二度と帰らぬ夫と思いき

湖の底にいるごとき閑けさや夫亡き家にわが一人住む

 

桜誘う山路をゆきて亡き夫が待っていそうなわが家見下ろす

寂しさは独りの食事整えて「いただきます」と箸を取る刻

しとしとと秋雨が家を包みこみ何処に居ても独りはひとり

 諍いを忘れし独りのわが暮らし猫の喧嘩に心昂ぶる

みかんの木におりし天牛三匹を仕留めて華やぐわが心かな

その昔難所と言われし柏坂 今を徒歩ゆく遍路は若し

日赤救護史の殉職欄に並ぶ友二十歳の瞳われに微笑む

fujinn-kaip1 (3)        婦人会の副会長をした時の松本 栄さん。宇和島で看護婦をしていた。

歌は楽しいとき共に喜んでくれる友。悲しい時に共に泣きなぐさめてくれる友である。寂しい時にそばにいてくれる友である。歌を心の友として人生の山坂を歩いてきた婦人の心の足跡がここにある。遍路道とおなじで同行二人か…。個人の情念であるが、読む人の共感を呼ぶのは心のままを飾らずに書いているからに違いない。柏坂はこの山なみにある。

柊書房から平成16年に出版。東京都千代田区猿楽町1-4-12 自誠堂ビル℡03-3291-6548 定価2700円