本当は2月ごろが寒いのかも… 旧暦のほうが季節にそっています。今は旧暦では12月です。天気もよくあかるい正月でした。娘も広島から帰ってして二人でにぎやかにしゃべっておりいい正月でした。パソコンも変えました。ウインドウズ7から10にしました。ちょうど重くなっていたところでした。サクサクいきます。今年は4月から話し方教室が瓜生野であります。新入生を迎えてこちらも頑張ります。
「話し方入門」 では「スピーチの実習」にうつります。 (指導者の司会) それでは◇◇さん、よろしくお願いします。 生徒は元気よく返事をする。「はい」 皆さん拍手をどうぞ! (拍手) 拍手が終わってから…中央に出て演席でしゃべる。 皆さん、こんにちは! (会場) こんにちは! 今日はこの会に参加するのをとてもとても楽しみにしてきました。では簡単に自己紹介をいたします。私の名前は◇◇◇◇です。 (ゆっくり言う) (このあたりから三方向を見る ) 趣味は「 」です。
◇◇◇◇でした。皆さん、ありがとうございました。 (会場は) 拍手をする。顔は下向きに帰らず普通に帰る。
・笑顔で出て、笑顔でかえる ・三方向をしっかり向き話す (一方向は七秒間みる) ・練習は10回はしてみょう ・メモはいいがしやべるときはメモは見ない ・自分の席に帰るまで、失敗を隠すようにテレ笑いしない。
今日はちょっといいコトがあった。木曜日は毎週「家庭で行う自主トレーニング」がある。ベッドのサクを持ち、膝の曲げ伸ばしを行う、足指を開いて10回×3セットというのがある。そしてベッドと玄関の往復を二回行うのだ。普通の体ならなんでもないことだが脳出血の体にはかなりキツイ…でも今日はうまくいった。先生も褒めてくれた。
先日はお年賀ありがとうございました。私はシルバーカーで須ノ川銀座を散歩しています。ゆらり内海から内海中学校の前を通って観音様の下まで歩いていましたが、三回こけたので…いまはちょっと様子見です。家でテレビを見たり本を読んだりしています。お料理はしているのですよ、私を見て主人は「コタツムリ」と笑っています。 まえ「中国1週間の旅」でタクラマカン砂漠の偉大さに圧倒されました。足が悪くなってからも沖縄や宮島へ行きました。平成30年には主人が保護司を長くしていたので瑞宝双光章をもらいに宮殿で天皇陛下に拝謁しました。天皇陛下のお顔は柔和でした。車をすこし小さい車に変え、あと10年はこの車に乗り長生きしたいと思います。洋ちゃんの自分史みたいなぁ~ 同級生の千代子より
ビデオの編集はなかむづかしい。とくに音声の処理が、映像はそのままで音声だけを下げる個所がある。これがむつかしい。簡単なことのようにおもわれるが…オーディオダッキング機能を使うのだが…。
早々のお年賀ありがとうございました。沢山の病気の方に出会っていますが、樫元さんのような方は他にいません。気力、迫力、すごいです。楽しんで頑張っておられる姿は最高です。 散髪屋のみどりより
スバル360 9月の夕方の時でした。まだ私が大学を休学していた頃で母はがんで亡くなり、復学しょうと思いましたが、金もなく中途半端な時でした。アルバイトで車の運転をして、魚の運搬などをしていました。車を返しにいったときです。人が大勢あつまっていました。見るとスバル360が前輪の故障でパンクではなく、溶接がが必要です。村には車の故障をなおすところがなく、宇和島市まで引っぱってゆき修理工場に出すしかありません。「洋ちゃん、すまんが車を宇和島まで運んでもらえんじゃろうか?俺たちが車を荷台にのせるけん!」という声がします。よし、と言って荷台に載せて宇和島まで1時間です。車の持ち主と話をしました。みると新婚夫婦です。スバル360で四国一周の途中でした。熊本県の菊池恵楓園で医者をしていることを話してくれました。
私は国立ハンセン病の病院だな、と思いました。宇和島で修理をして明日、八幡浜から大分そして熊本に帰るコースでした。宇和島に着き工場のまえでお金を払おうとするので「お金はいらないよ」と言って、なんどもお金を払おうとするのを止めました。「新婚のお祝いよ!」といいました。私はその後宮崎に渡り、念願のアンウンサーになりました。九州に縁ができたのは、あの新婚夫婦の気持ちのお返しかな、と思います。
今年の年賀状に面白いハガキがあった。手製でウラに「おみくじ」が書いてあり、どれかをひくと抽選で「賀正・大吉」があたるようになっている。ちょうど「ケアふる」の看護婦さんが来ていて「あら、面白そう!」と手をのばしてやってみた!線をたどっていくと見事に「大吉」だった。 でもよく見ると「ちょっと大吉」とか「超大吉」があり、ラッキーな一年になりますように!と書いてあった。たのしい年賀状だった。日向市の塩月さんの年賀状だった。これがわが家では文句なしの一等賞の年賀状だった。
寒中お見舞い申し上げます。昨年末に届きました「自分史」は、製本のすばらしさと表紙の言葉に心惹かれました。作り手の温かい声が聞こえてきそうでした。私の手元には宮日新聞を切り抜いた「自分史」が残っています。自分のスピーチや皆の写真が載った日はとてもうれしい気分になりました。 樫元先生との出逢いは平成20年4月30日の1枚のはがきから始まりました。本物のアナウンサーの方から直接指導を受ける喜びは、毎回の楽しみにつながりました。参加者のスピーチを聞きながらも、自分のスピーチの出番を待つまでの緊張感の高まりは聞く余裕さえなくなりました。樫元先生のアドバイスは具体的で、DVDを見ながら復習もできました。自分を映像で見て声を聞くと大変勉強になりました。発音、姿勢、お辞儀の仕方、手の組み方、歩き方、一つ一つが良い手本を自宅での鏡を見ての練習に大いに役立ちました。
樫元先生がいつも言われる「練習」は身にしみる言葉でした。原稿をパソコンに入力し、声を出して、タイマーをかけて、洗面所の鏡を見て、原稿の手直しをして、家族の前で練習しました。「みなさん、こんばんは」「みなさん、ありがとうございました。」このセリフに丁寧なお辞儀が加わって半分完成です。中身のスピーチはイメージして覚えました。接続詞がうまく出ずに何度も始めからです。2分足らずのスピーチにかける時間はスポーツの練習と同じです。毎日コツコツ続けることでした。そして、話し手と聞き手一体感を感じるスピーチの方法は、何度も仕事で活用しました。先生がご病気でしばらく中断、「話し方教室」の再開が案内されると、声がちっとも変っていなかったことです。脳出血で体の動きはゆっくりでしたが、懐かしいDVDを見て改めて「話し方教室」の奥の深さや基本の大切さを感じました。
公民館の講座から引き続き自主講座「ひろりんスマイル」が発足しました。毎回のDVD編集は大変だったろうと感謝の気持ちでいっぱいです。ときどき昔のDVDを見ることがあります。樫元先生の良い見本と悪い見本に、うまいなとクスッと笑う自分がいます。月に一度の講座ではありましたが、とても楽しかったです。私は春の異動で残念ながら「ひろりんスマイル」がどうなるか約束できませんが…時間があえばまたお会いしたいと思います。 河野ひろりん
「青春は短く老後は長い、」今年の年賀状にあった同級生の言葉です。そう思いますが、しかし見方をかえれば老後の青春はあんがい長い…と言えます。心ひとつです。 柏中学の思い出としてアルバムを作りました。田舎の中学だけと、誘い合って大阪ユニバーサルに行ったことや、桜の綺麗に咲く時期に大阪城見物に行ったことなど一枚の写真が多くを語ってくれます。もう会えなくなった中学の先生の写真、夢の国へ旅立った友の笑顔の写真など、こちらも笑顔で見返します。本当に思い出のアルバムです。
樫元さん、お久しぶりです。今春、私が大好きだったアニメ「魔神英雄伝ワタル」が復活します。ネット配信の新作です。広島でも見られま! 広島の知美より そうか、芦田先生がよろこぶぞ!樫元
えびの市制50周年記念番組「戦国の武勇・島津義弘」が26日(日) 夕方4時からMRTテレビで放送されます。えびの市の飯野城に26年間住んでいた武将です。~というお知せが制作集団 満天 の前田さんから入った!新春早々うれしいニュースだ!
2020年1月4日、びっくりしました!声優の野沢雅子さんのCD盤、すごいうれしかったです。宮崎の「こどものくに」での公開録音、ドライブしながら車のなかで聞きました。有難うございました。クリスマス・プレゼントです。1992年にあったのですね、私も行きたかったな~でもCDで残っている公録です。アナも樫元さんと前田さんで、音もいいですね~ さすがドラゴンボール!子供にも絶対の人気です。ステキなプレゼントをありがとう! 佐智の恵子より
今年も指でかぞえるほどになった。あと何日かで終わる。年賀状も出してもらった。1年のたつのは早いもんだ。私の若い頃はゆっくりでなにかとするのに役立ったが、70歳をすぎる頃からアッというまだ。世の中の早やさについてゆけない。でも考えてみれば便利になった。座っているだけで要はたせる、電子化のせいだ。テレビで「欲しい!」と思えばインターネットで買える。買にいかなくてもよい。パソコンの発達のせいだ。ブログも大いに発達し紙がなくても字が書ける。字が残る。日曜品や家庭雑貨などは残るが電化製品などは地方では衰退してしまう。
明けましておめでとうございます。おじいちゃん、おばあちゃん、しばらく会ってないけど元気てすか?おばあちゃん、絶対に右手がまた動きやすくなるから、おじいちゃんといっしょにがんばってください。またいっしょに裁縫をしましょう。子犬のイラストがあり、げんきちゃん君が「はやく元気になってね!」心より、平成30年元旦
25日、「佐智」でクリスマス・パーティをやった。田原先生が自慢ののどをふり絞って「走れ橇よ 風のように♪」とか「きよしこのよる♪」 そして山下達郎の「クリスマス・イブ」雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう♪」 などを唄った。皆も唄った!お菓子もついており楽しかった。遂にDeLLのパソコンを買った!ノートパソコンだ。今使っているウインドウズ7が古くなり、64ビットでもちろんOffice付だ。ビデオ編集ソフト・サイバーが使える!難しいEDIUSに代わる「サイバー」編集機です。新機種は31日に到着する。
デイサービスに勤める彼女が医院に行ったときのこと、ふと目を上げると掲示板に宮日新聞の「自分史」がある。あれっ「ラジオは友だち!」の連載がなんと初めから終わりまである…とびっくりした。 そういえば彼女の母も珍しくスクラップしていた。樫元さんのことが載ってるから…と云った。母が若かりしころ樫元アナウンサーが「くらしのレーダー」などで活躍したことをしっているから、と母が言った。久しぶりだわ、とそのころにかえって新聞の切り抜きをしていた。
年賀状は今日20日に郵便局に出した。県外の人にも出すから元旦に届くだろう。イラストはパソコンで面白いものがたくさん出てる。その中から好きなものを選べばいい。私は雪だるまのイラストが気にいった。雪だるまは南国では珍しい。 さて「ラジオは友だち!」はいいが、目のわるい人には活字は読めない。「音訳」すればいいが‥それがなんと視覚障害者センターの大賀さんの努力で実現した! スマホでブログ「ギターをった渡り鳥最新版」を聴きながら 「耳できく自分史」を楽しんでもらいたい。
ところで、樫元さんのあの力作「自分史」が小林市の朗読友の会の方で音訳されるとは、凄いですねっ!新聞の力も凄いですが、やはり記事そのものに「もっと読みたい」「みんなにも読ませてあげたい」と読者に思わせる魅力がたくさん詰まっていたのでしょうね~♪ 音訳は、どんな方がどんな風に朗読なさるのでしょうね。仕上がりが楽しみですね…☆ 真理
〇音訳とは、「眼の不自由な人に伝えるために、文字などを音声化すること」、市報などをパソコンに録音しCDにする。各地に物語や市報などの朗読奉仕員がいて活躍している。 ところで「深夜食堂」 7、ハムカツ 懐かしい昔の友達と会う、ハムカツが好きだった… ラストの場面が泣ける、 安部夜郎、著 高知県中村市出身、四万十川のそばだ、青ノリがおいしいところだ。
年賀はがきの受付が15日からはじめると聞いた。いよいよだ。私も出すハガキが250枚あるので準備OKだ!最近は郵便局もサービスしてくれると聞いた。年々年賀ハガキが少なくなっているらしい。メールやSNSで友だちなどにメールを出すほうが手間がいらない。しかし私は昔人間なので年賀葉書がよい。写真を入れて中学生の頃の思い出や今はなき校舎をバックにした写真などは貴重だ。もう70歳を過ぎたから…昔の写真のほうがよい。しかしこの歳だとパソコンを使えない人がおおくて残念だ。
お久しぶりです。年賀状が遅れてすみません。「話し方教室」スゴイですね。樫元さんはまさに「一念岩をも通す」を体現していると思います。どれほど努力されたかを考えるだけで感動します。身体を大事に頑張ってください。 平成30年元旦 三谷より
みっちーへ、 自分史はいかがでしたか? 特にベスト20の田原俊彦へのファンからのインタビューは「都城市民会館でファンからの質問をアナが直接聞く形式で」盛り上がりました!それにアニメランドの声優入門「アテレコに挑戦!」は、ファンと声優さんが1対1でセリフをやりとりする迫力で人気がありました。
今年の民放クラブ九州の合同懇親会 (MRTミック) に出席した。大分放送の杉田さんも来ていた。懇談会は賑わっていた。杉田さんから後日葉書がきた。「樫元さんが頑張って生きてらっしやるお姿を拝見し感動いたしました。ありがとうございました。 野辺さんの急逝にはビックリしました。貴兄はくれぐれもお身体を大切に活躍なさって下さい。 ボクも「話し方教室」などもう少し頑張ります。」 杉田より
年賀状を書いたあと「ウチは今年は喪中なので…年賀状は失礼します。」 というハガキがわずかだが来る。せっかく年に一回のたよりの機会を書いたのに‥と思う。 そこで私は12月に私製ハガキを買い「おめでとう」の言葉をかかずに「来年もよろしく!」と書いて投函、というのならいいではないか? 私は思ったので、そうした。年に一回の貴重な機会のハガキである。
「中学生の日記から」 中学二年生の春休みの時でした。理科の植物採集の活動を兼ねて、朝早く大野先生引率で友達の樫元くんと先輩二人で須ノ川に向かって歩き始めました。須ノ川をやっとすぎ村境の鳥越トンネル手前で左へ折れると由良半島(ゆらはんとう)です。当時のトンネルは岩石を荒々しくくり抜いただけでなんか怖いようでした。道は砂利道です。平婆をすぎて家串にでます。ここにもトンネルがありました。しかしバスはとおらず、やっと人や荷車が通る程度にあけた狭いトンネルでした。小さな漁村です。小さい小学校があります。道はさらに狭くなりました。
デコボコだらけの歩きにくい山道が段々畑の端を縫うようにありました。魚神山、網代、と小漁村が半島の小湾のすそにありました。途中の船越は「昔、大津波の時に舟が山を越えたことからついた地名」と言われている所なので、立ち寄ってみました。山の背がそこだけ低くなっており小高い岡のような所でした。かけ登って見下ろすと隣村の宇和海が目の前でした。現在は小型の漁船が通る程度の小規模な運河が開通しています。このあたりは…道の不便さとは反対に、海の青さ、幾重にも入り組んだ半島の山並みの美しい風景の連続で、思わず「いい眺めだなあ…」と声が出ました。
そうしてやっと由良岬に到着。高台に立って見渡せば目前の豊後水道、その向こうには九州の海岸線がうっすらと目に入り、まさしく「海はひろいな大きいな…」の歌のとおりの世界でした。しばし眺めて休憩しました。ここは戦時中は敵の潜水艦の見張りがあったらしく、その名残が大き古いコンクリートの跡として残っています。
帰りは岬を右に曲がり、宇和海を見ながら鳥越トンネルまで帰り、やっと柏まで帰ってきました。すべて徒歩でした。中学生の足でしたから約8時間かかりました。植物はあまり珍しいものは採取できませんでしたが、今思うに、中学生で柏から由良半島を歩いて回ってきたのはめずらしいでしょう。貴重な体験でした。柏の海岸も美しいですが、由良半島の景色の素晴らしさはそれに勝るもので、今も私の中で忘れがたい思い出です。
「いのこ」(亥の子)
これは男の子の遊びです。11月中旬の亥の日に夕方から男の子たちがグループを組んで、「亥の子石」という丸い石に縄をつけてそれをかかえながら地区の各戸を周り、八方にひろげた綱をひいて、はやし唄と共に搗きます。これは家の倉などに穴を開けるモグラ退治や、豊年祈願などの恒例の行事でした。はやし唄は3種類程度ありましたが、シンプルなものを憶えていますので書きます。 「 亥の子~亥の子~祝うた人は~ イチで俵ふんばいて、ニでにっこり笑うて、サンで酒を作って、ヨッつ世の中良いように、イツツついつもの如くなり、六ッつ無病息災で、七ッ何事ないように、八ッ屋敷を広げて、九ツ小倉を並べたて、十トゥでとって納めた~エぇぇイ!」と拍子に載せて縁起の数え歌を唄います。この行事は各地にありましたが、はやし歌は地域によって違うようです。
この地鎮祭みたいな風習で庭にできた凹穴は神聖な所となり、雨が降るまでは土足で踏んではいけない…と言われていました。ましてやそこにオシッコでもひっかけようなら「チンチンが曲がるで~」と言われこわかったものです。
秋になると思い出す。わが家の近くに住んでいたアキちゃん、小学低学年のころ町に引っ越していった。東京都福生市だ。ブロック工場でお父さんは仕事をしていると聞いた。愛媛の名もない村から行った。アキちゃんとはそれっきりだ。消息もない。柏にいる頃二人でよく遊んだが‥秋になると思い出す。家のそばに雑木林があってそこに行っては遊んだ。お城を作り、といっても簡単なもので、木の小枝を組んだものでよく、そこに座っては二人で遊んだ。そのアキちゃんがふいに居なくなった。東京へ行ったという。東京はどんなところだろうか? ブロック工場で遊んでいるのか‥アキちゃん、
「手作り名刺」 皆さん、こんにちは!樫元 洋でございます。名刺はビジネス用以外に最近ではプライべートでも使われます。ほとんどの人がPCを持っているいま、手作り名刺がふえています。 私も「話しかた教室」で公民館にほやほやの名刺をもって挨拶にいきました。脳出血で7年の月日がたったけど手作りだけど、初の名刺だ。 自分も社会に出て仕事ができるんだ。自分に残されている部分はこれなんだ、これで社会に貢献できる… 8年前公民館ではじめた「話し方教室」が病気のため中断したが、またやれる。大阪まで飛行機で半年間通ったことがいま通用している。15人の定員に対して50人の応募があったという…。私の手作り名刺は今日確実に羽ばたいていく…。 樫元 洋でした。皆さん、ありがとうございました。
今日からよ!
「神武さん」がちょうど季節の変わり目を告げてくれる宮崎。そんなふるさとのことが年を経るごとに好きになります。先日は思いもかけないお便りが届き驚きました。早速、樫元さんからのハガキを手に、弓削課長宅に走りました。奥様はとても喜んで下さって、「きょうは朝から良いことがあって嬉しい、」と言われました。今でもとてもお元気で、近くのコミュティセンターで卓球をしておられます。 私は今は近くの家に住む家族のために夕食を作る毎日です。 令子より
先週の金曜日うちの課の朝礼で樫元さんの「ラジオは友達」を読みたい方は言って下さい!と言ったところ10人中5人が見たいと言うことで今回している所です。 「アニメランド」の裏話やその頃のアイドルの写真まで載っててみんな凄いとかそれぞれ昔に戻ったように話しが弾んでいました。いつもながら改めて樫元さん偉大さに圧倒されました! みっちー
昨日、『自分史』を受け取りました♪ 美しい、貴重な一冊です。大変な労力と長い時間を掛けて連載を続けられたであろう、そのご苦労が全て記録されている素晴らしい一冊です。また、理学療法士の先生のお手製だとの事ですが、あまりに素敵で綺麗に製本されていて驚きました。これが「非売品」だなんて…とても勿体ない気もします。ホームページ上で記事を纏めた本を製作される予定だとは知っていましたが、実際に現物を見ると感動してしまいましたし、そんな大切な一冊を私にまで送って頂いて大変感激しております。
私はアナログ世代の人間ですので、今だに記事や文章を読むのはWeb上よりもやはり紙の本の方が安心するのです。なので、何度でも一気読みできます!(自分の稚拙な文章は読み飛ばしまして…(笑) 最後のページに載せられていた感想文にも書かれていましたが、本当に「そのたくましい力はどこにあるのでしょうか?」 第一線を退かれても、病に倒れられても、なお次から次へと新しい事にアイディアを出してチャレンジされつづける樫元さんの精神力を見習いたいと思います! 高知市 峰友真理
ご本ありがとうございました。宮日新聞を楽しみに、毎回拝見しておりました。私は、当時の資料をとっていませんでしたので、樫元さんの資料の凄さに感嘆しながら、懐かしく読ませて頂きました。私にまで、色んな方からの反応がありましたので、樫元さんはさぞ、反響が大きかったことでしょう。私にとっても、良い記念となりました。感謝しています。これからも、お元気で、ご活躍ください。 ペンネーム、JUN
「ラジオは友だち!」の本が出来た。自分史です。非売品である。しかしちゃんとした本になった。田原先生が「趣味で」製本したのです。126ぺージの自分史です。 高校生の頃放送に興味を持ち、大学時代は母のがんで大学を休学して看病したが亡くなり、お金も無く孤立無援だった。たまたまラジオを聞いていた弟が「宮崎放送でアナウンサー募集をしているよ、兄ちゃん受けてみたら、」と言った一言で四国から九州へ渡った。宮崎は広かった。青島に行くと青い空と海がありこんな広いところが日本にあるのか!と驚いた。私の人生のスタートだった。そしてMRTで大活躍した自分史です。テレフォンナイトの高盛恵子さん、洋と潤子の薗田潤子さん、アニメランドの伊藤佳子さんや遠藤玲子さんなど、お相手のアナの顔がうかんでくる。。脳出血の回復期に鵬翔高校の生徒に面接を教える場面や門松先生にDVDに録画をする場面など目にみえるようです。新聞より具体的にわかります。本の威力です。アナの第一線で活躍した。走馬灯のように自分史にうかんでくる。
夕暮れが早くなった。11月になれば年賀状の用意だ。いつも12月になってからあわてて書く、最近はスマホですませる人も多い。世の中はしだいに変わっていく、いちいち賀状を出す人も少なくなった。昭和・平成・令和の時代に生きた者にとってやはり年賀状だ。お正月の静かな日に年賀状に目をとおし過ぎ日の思い出をなつかしむのは楽しいものだ。
宮崎放送の令和1年の秋号に社内報に載った! 元アナウンサーの樫元 洋さん(75) がMRTでの経験やご自身の現況を綴った「自分史」が、宮崎日日新聞で61回に渡って連載されました。
このタイトルは、「あなたにとってラジオとは?」とリスナーに質問したところ、返ってきた小学生の女の子の答えが「友だち!」です。「当時はそれが嬉しくて、今でも覚えている」とのこと、連載は当時の人気アイドルへの貴重なインタビューや、番組の企画・運営に奔走した思い出などを振り返る内容となっていて、「人気番組アニメランドを手掛けたのが一番の思い出」と樫元さん、知る人ぞ知る声優の方々を宮崎に招いて、ファンとの場を設けるなど、リスナーに寄り添った番組作りに勤しむ毎日を過ごされたそうです。 そんな樫元さんは平成21年に脳出血に倒れるも、現在は宮崎市内で「話し方教室」を開いて「話す」ことや「言葉の持つ力」の素晴らしさを多くの人伝えるなど、元気に生活されています。「今後もこの教室を続けていきたい」と目を輝かせながら語る樫元さんは、この連載が「同じような病に苦しむ人の励みになれば」と話していました。 樫元さんは昭和39年に入社、テレビ「奥様930」「ニースワイド」などを担当し、ラジオ本部ラジオ局長をされ平成15年定年退職されました。 (記、甲斐祐一郎) MRTも今年で開局65周年か!~
1年と4ヵ月で閲覧数が四万人を越えました。SOUNDの魅力、と題して音がついた時の魅力について企画しています。考えてみれば一般のブログは普通音がつかない。私のは仕事上音がついていることが多い。仕事をはじめた50年まえからだ。そんなに昔から…だ。聞いてみると世相もしれて面白い。SOUNDの魅力だ。CD-ロムにすればブログでなくても音が楽しめる。CDーRWなら文章と音楽が保存できる。
年賀状の発売がはじまった。もう十月になった。私も書いてみた。今年もよろしくお願いします。昨年は宮崎日日新聞の「自分史」の準備などで年賀を失礼しました。二ヵ月にわたり新聞に掲載され好評を得ました。ブログの「ギターを持った渡り鳥最新版」の「ラジオは友だち!」は自分史の原作で面白いです。 「愛媛の青年が宮崎へ、」は 名もない青年が青雲の志を得て宮崎に行き活躍した物語りです。今 続編を「自分史外伝」に書いています。今年は瓜生野の公民館で「話し方教室」をします。
ハガキに書けるのはこれくらいで写真を入れると丁度いいスペースとなる。
「自己紹介」 皆さん、こんばんは!私は瓜生野にすむ◇◇〇〇〇と申します。 仕事は農業でおもに胡瓜の生産にあたっております。 家族は四人で一番うえの子供は高校を卒業しておなじく農業をしています。私が話し方を学ぼうと思ったきっかけは、自分が自己紹介も十分にできないことで、「これはいけない、なんとか勉強しなけれは…」 と思ったからです。とはいってもどう勉強したのかわかりません。タイミングよくセンターのほうで元アナウンサーの人が講習をしてくださる話をきき申し込んだのです。私の趣味はカラオケで唄うことです。こんど夢グープが主催する「橋 幸夫と歌の仲間たち、」 というなつかしの歌謡スター、伊東ゆかりや黒沢利雄も一緒にくるというコンサートがあります。ふるい曲ですがいい歌ばっかりです。来年の1月です。メディキットです。5800円です。是非行きたいと思っています。カラオケ大好きの◇◇〇〇〇と申します。皆さん、ありがとうございました。
挨拶の「動き」について紹介します。
では、はじめに前回の「話し方教室」のDVDを見ます。 手は結ぶが、男女の違いあり。
(司会者 ではスピーチを始めます。「はじめに〇〇さんどうぞ!」呼ばれたら答える。 「はい」 皆さん拍手をどうぞ!
お辞儀をするまえに一瞬の静止が必要!目線はやわらかく主催者の顔を(正面)一瞬見る。みなさん、(動きが先) こんばんは! そして頭をさげてそこで一瞬、動きを止める。ゆっくり顔をあげる。
私は桜ケ丘町に住む樫元 洋と申します。仕事は長年アナウンサーをしましたが退職して公民館で話し方を教えています。 (30秒ほど話す) 簡単に言う、趣味はカメラです。
話し始めは10秒間は正面を向き話す。その後三方に顔をむけながら話す。右に7秒、正面に7秒、左に7秒くりかえす。なるべく微笑で… 足までうごかさない。 終りのところでまた名前を言う。〇〇〇〇と申します。皆さんありがとうございました。(一秒の停止ののち)礼の顔をあげる。瞬間停止ののち、帰る。 頭を下げたままで帰らないように… キョロキョロしない。自分の席に帰るまでは皆が見ている。
「青梅くん」 永 楽太郎 皆さん、こんばんは!永 楽太郎と申します。 七月半ばまでジメジメしていたのに梅雨が終わるとアッという間に暑くなりました。こどもの頃、外で遊ぶことが出来ないので、家のなかをドタバタと走り回っていると親からよく叱られたものです。学校に行くとき毎日傘をさして長靴をはくと私はどうゆうわけか踝のしたに靴づれをおこすのでそれもイヤでした。それで夏がはやくこないかなぁ、と思っていました。 梅雨のいわれについて調べてみました。二つの説があります。ひとつは中国ではカビが生え易い時期の雨なのでカビの雨と書いて黴雨とされていたそうです。もうひとつは梅が熟する時期の長雨なのでそのまま梅の雨となった、という説です。 この梅に関しては…小学生の頃ある事件がありました。当時青梅をたべると赤痢になるということで青梅は絶対に食べたらいけない、と言われていました。ところがクラスの反省会で男子のひとりが「青梅を食べた」ということがバレてしまい、クラスの皆から非難をうけて罰として運動場を走らせることになりました。今はたくさんオヤッがありますが、当時は食べ物がすくなかったので梅が熟れるまで我慢できなかったのです。その生徒は足が早くて活発な男子だったので今のようにイジメをうけることはありませんでした。しかしその事件以来、みんなからは「青梅」というあだ名がついてしまいました。そしてクラス会で「青梅青梅」と呼ばれクラスの人気者になってしまいました。 皆さん、ありがとうございました。
「私は檜の香りが好き」 河野ひろこ 皆さん、こんばんわ、河野ひろこと申します。 季節は食欲の秋に入りました。私はちいさい頃、学校の給食室の前をとおると、ぷ~んといい香りがして、今日はカレーの日だ!今日はミートソープの日だ!というふうに匂いを嗅いで、いただく前にその日の献立がわかった、という事がわかりました。匂いは不思議なものでそれを嗅ぐだけで食べるものが頭の中に浮かんできます。ベランダからガーリックのこんがりした匂いがしてきます。あっ、お隣はぺペロンチーノだ、そして魚のにおいがしてくれば秋刀魚をやいているんだ、というふうに隣りの晩御飯で、わが家の食卓にわらいがとても大きくなります。お隣の話をするのはたいへん恐縮なんですが、たぶんわが家の匂いもお隣に通じているのかな、と思います。 旅行にいって飛行機から降りると、ああ沖縄の匂いがする、とか、ハワイの匂いがする、韓国にいくとタラップを降りてすぐにキムチの匂いがしてきました。あぁ異国に来たんだぁ、と…匂いで気分がもりあがってしまいます。私は朝市が大好きで先日行った時にパンのこんがりと焼けた匂いがしてきました。そしてひき立てのコーヒーの匂いをかいていると「しあわせ~」な気分になってきます。
皆さんはアロマっていう言葉をご存知ですか?今、ちまたでアロマ、アロマっていうふうに「アロマテラピー」っていう言葉がはやっています。アロマという意味は「香り」という意味だそうです。この香りの市場はすごいもので、ここ1~2年で3千億円と言われるぐらいの大きな市場になっていると聞いております。そして最近のキーワードは~天然というのがキーワードだそうです。天然ゆらいの~化粧品、シャンプー、リンス、皆さまおなじみの入浴剤、そして今は柔軟剤にまでいろんな香りが入っております。それだけ香りに敏感な今は時代になっているんだな、と感じております。 私の好きな匂いは檜の匂いです。檜の入浴剤をいれて檜のお風呂に入った気分に、というのが一番の至福の時間です。来年はオリンピックを控えております。日本のおてもなしの中にアロマ、香りを加えていただくとよいかな、と思います。 皆さん、ありがとうございました。
♡やっと9月らしくなった。日和になった。よい天気だ。これまでは台風による雨風の日が多く9月らしくなかった。しかし210日や220日という言葉がある。9月はおだやかな日は案外少ないのかもしれない。9月も後半にはいった。空の雲も秋らしくなった。 しかしまた雨が…
自転車でスイスイと風を切って遊びたい。との希望を叶えてくれるのが電動アシストつき四輪自転車だ!免許も年だから返上してなにかつまらなくなった。風をきって…との感覚が味わいたい。浜松の協栄製作所が作ってくれた。けんきゃくんという四輪自転車である。日本初の四輪自転車だ。いまのところサービス体制の関係で九州福岡があるが、広島県福山市に(株)セリオ福山営業所がある。福山は娘がいるので正月、お盆に車で宮崎に帰る。そのおりに持って帰ってもらえばいい。私もスイスイと風を切って遊びたい。
「今日のひとこと」 先月の「ひとこと」は印象に残った、という人がいた。再現する。 8月になった。神社の庭にはセミのぬけがらがあちこちに見当たります。セミは土の中に8年もいて抜けがらをすてて夏の太陽のもとあのやかましいセミが鳴くのです、そして8日くらいで一生をおえる。 短い一生だ。セミよ一生懸命に鳴きたまえ、そして夏の空で恋をせよ! 夏の夜空の花火のように短く美しく、
「沖縄の旅」 2004年、同級生の旅は沖縄へも行った。四月のゴールデンウィークまえの休日が旅の値段も安くていいのである。60歳をすぎると旅はいつでも設定できる。平和の礎は末弘モト子の父上がさきの大戦で輸送船で沖縄の海で撃沈されて眠っているので戦没者の名前をさがした。20数万人の名前の刻銘のなかから探しあてた。親子の涙のまぼろしの対面であった。「お父ちゃん、モト子です。いま来たで~」 この会話のあいだだけ父がよみがえった。だが、すぐまた青い海にきえていった。かつて死闘が展開された魔文仁の丘は鹿耳樹が暑い陽射しから碑を守り、丘にはブーゲンビリアが咲いていた。沖縄は知らない土地だが父のねむる土地だ。どこかなつかしい。同級生の中には未だに父が南から帰らない人もいる。
平和の礎 へいわのいしじ 太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念として、戦没者の名前を刻銘し、慰霊するとともに恒久平和を願い戦争の悲惨さを後世へ伝える目的で建設された。礎(いしじ)とは内地の言葉の〝いしずえ〟に由来しています。
摩文仁の丘 まぶにのおか 沖縄平和記念公園付近一帯は摩文仁の丘と呼ばれ、想像できない激戦地でした。
鹿耳樹 葉が小鹿の耳の形をしている樹 平和の礎の戦没者の名前の碑のそばに植えてある。
南から 南方のこと、東南アジアの諸国や南洋諸島をいう。南洋のジャングルで飢えで死んだ兵士たちのこと、
女房の友達の中川さん(主婦) から、宮日の自分史を読んで、 色んなことをよく憶えているね~文章力もすごいし感心した。
ありがとう! 樫元 洋 9月の夕方の時でした。まだ私が大学を休学していた頃で、母はがんで亡くなり、復学しょうと思いましたが、金もなく中途半端な時でした。アルバイトで車の運転をして、魚の運搬などをしていました。車を返しにいったときです。人が大勢あつまっていました。見るとスバル360が前輪の故障でパンクではなく、溶接が必要です。村には車の故障をなおすところもなく、宇和島市まで引っ張ってゆき修理工場にだすしかありません。「洋ちゃん、すまんが車を宇和島まで運んでもらえんじやろうか?俺たちが車を荷台にのせるけん!」という声がします。よし、と軽を荷台に載せ出発しました。宇和島までの一時間です。車の持ち主と話をしました。みると新婚夫婦です。スバル360で四国一周の途中でした。熊本県の菊池惠楓園で医者をしていることを話してくれました。私は国立ハンセン病の病院だな、と思いました。宇和島で修理をして明日、八幡浜から大分そして熊本に帰るコースでした。宇和島に着き工場のまえでお金を払おうとするので「お金はいらないよ」と言って、なんどもお礼を払おうとするのを止めました。なんかちょっといいことをした気分でした。私はその後宮崎でアナウンサーになりました。九州に縁があったのは、あの新婚夫婦の気持ちのお返しかな、と思います。
民放クラブの紹介ありがとうございます。10月の四県合同懇親会ではお目にかかれること、楽しみにしております。その折お話を聞かせて下さい。 大分の杉田より
脳内出血という病で本当に厄介なのは患者さんのメンタル面なんです。「こんな事なら死んでしまった方が良かった」と涙し、病状は落ち着いても後遺症の辛さに負けて心を閉ざしてしまう方の何と多いことか…。「一命を取り止めただけでも幸い」なんて言葉は「そんなおためごかしは要らない!」と、患者さんの耳にはなかなか入りません。お世話をさせて頂く看護師や医療スタッフも、一緒に辛くなるものです。時間をかけて、ゆっくりとリハビリを続けるしかないのです。闘病生活とは、この病に関してはまさに「闘い」かもしれません。 高知からの手紙、真理より
残暑お見舞い申し上げます。ここ61日間、毎日が来るのがまち遠しく、真っさきに宮日「自分史」をとって読むのが日課になりました。「ラジオは友だち!」です。朝の楽しみと1日の元気の素を下さりありがとうございました。「すごいなぁ~」の1言です。樫元先生執筆の自分史の中には「話し方教室」の場面も紹介されうれしかったです。「話し方の目的は」人間関係の円滑化にあります。と、受講生同志に絆が生まれました。日中はまだ夏の日差しです。お身体をお大事になさってくださいませ。 ひろりんスマイル代表、河野ひろりん。
逆瀬川さんへ、うれしいニュースです。 言語聴覚士の逆瀬川倫明さんが、私が病前に、「話し方教室」を開いていたことを知り、またそれをやってみたら…と、提案してくれました。私が利用している宮崎市の訪問看護ステーション「ケアふる宮崎」に、鵬翔高校看護専攻科の生徒が実習にくる機会をとらえて、自己紹介の教室を開きました。これが当たり、ばくぜんと回復訓練をしていたのが目的ができ自分で進んでやるようになった。生徒には1分間面接の練習をしてもらいました。「こんにちは!☐☐でございます。よろしくお願いします。」 こんにちは!は頭をさげずに言う、よろしくお願いします。は頭をさげながら言う。しゃべっている時は真正面だけでなく三方向を見てしゃべる。一方向は7秒間見てしやべる。この練習を40人としました。
樫元さんへ、 鵬翔高校の校長先生から、ケアふるの訪問看護ステーションの管理者に「樫元さんの自分史を読まれて、うちの看護科の学生が実習で自己紹介の指導を受けて大変お世話になりありがとうございました」とお礼の電話があったそうです。嬉しい限りです。 逆瀬川倫明
樫元より、これを高校3年生に(卒業をひかえている)皆にしてもらったらいかがでしょうか。校長先生に話してその時間を作ってもらい。そこに私がお邪魔すると…はじめは管理者をとうして、生徒を3人ていどモデルにして…いかがですか、
樫元さんへ、 本当にこんなに長い自分史を書かれましたね。読み書きに関して言えば、健常者レベルをはるかに超えています。私と7年近く言語リハビリを頑張ってきた成果が全てここに集約されていると思いました。もちろん、いろんな他の方の助けもあってのことですが~この自分史で樫元さんの新たな人生が始まるような予感がします。 言語聴覚士、逆瀬川倫明
恩師の門松先生の昔のこども達への感激の言葉は真実であるだけに胸をうちました。「先生お元気ですか!」のDVDは貴重な人生記録です。 樫元
長期連載お疲れ様でした。ラジオで独自の道をきり開いてきた樫元さんの努力の凄さに感服しました! 前田憲幸さん 8月22日
お元気でご活躍されていること、こころから感謝しております。先生の宮日の「ラジオは友だち!」「自分史」を拝読しております。佐土原公民館での「話し方教室」で指導していただいた頃がとても懐かしく思われます。少々若く元気でした。ビデオの編集勉強会も、週1回開催して頑張っています。これからもお身体に気をつけられ、動画編集にも期待しております。奥さんにもよろしくお伝え下さい。 佐土原町 近藤 章 8月21日
9月の「話し方教室」のおしらせです。9月4日(水)です。夜7;30分から、テーマは、お彼岸、芙蓉、十五夜、彼岸花、お月見団子、天の川、結婚式、鰯雲、など、見学希望の方もどうぞ!西地区センターです。
「前田さんへ」、夏とはいえ暦の上では立秋です。宮日新聞の「自分史」もやっと終わりました。約二ヵ月の連載でした。最後に「民放クラブ」の思い出で終了。前田会長が合同懇親会を張りきってお世話すると思います。ブログ「ギターを持った渡り鳥最新版」が閲覧数三万件になりました。思いかえせば渓流マス釣りやブルーべリー摘みは楽しかったですね~ 私は合同懇親会には出席します。 では、また…
みっちーへ 8月20日(火) こんにちは!ブルーべリー摘みや渓流マス釣りは面白かったですね!御池のカルガモと一諸に写った写真は記念になりました。「自分史」のラストを飾ってくれた写真になりました。 では、また…
みっちーから、 長い期間お疲れ様でしたとても大変なお仕事だったと思います。私達の世代の方は皆、昔を懐かしみつつまた樫元さんの事や放送関係の裏話、そして話し方教室の事等沢山の思いで青春時代を思いだし人生観が変わった方が多くいらっしゃる事と思います。自分史を文字にされるのは大変な労力と精神力が必要だったと思います。無事に完結される事本当にお疲れ様でした。そして有り難うございましたまた、おめでとうございます。
「友への手紙」、暑中お見舞い申し上げます。日大芸術学部の正門前です。みんなアナウンサーになりたくて夢いっぱいの若者たちでした。60歳すぎて再会しました。京都のホテルまえでした。日芸時代のなつかしい話に花が咲きました。宮崎日日新聞のシリーズ自分史に「歌謡曲ベスト20」や「アニメランド」で活躍した私を取り上げてくれ、2ヵ月にわたって連載してくれました。まもなく終わります。日大芸術学部時代のことを書きました。新聞のコピーをお届けします。県紙なので他県では読めませんが、ブログ「ギターを持った渡り鳥最新版」の「ラジオは友だち!」で、スマホで読めます。一度見て下さい。君も脳梗塞に、私は脳出血にたおれましたが今は回復しています。 では、また…
久しぶりに今和泉さんから電話があった。宮日の「自分史」で「話し方教室」を見て~頑張っていますね~との電話だった。久しぶりに私も「話し方」をやってみようと思いまして…電話しました、と。今も西地区センターで月1回やっていますか? 「電話で細かいことは話せませんからハガキを下さい。」と言いました。まえも同じような電話だったのでおぼえている。話し方教室の場所と時間を教えてほしい。午後はしてないのですか?の問い合わせだった。西地区センターで夜あります。との答えである。
ブログの頭に短い音楽がつくといい、しかし作曲はだれに頼むか、有料ならばどうするか、MP3 で郵送してもらえばいい。前から考えていた。友人のKさんが作曲家であることに気が付いた。具体的な交渉をしてみよう。
ブログのはじめに書く「今日のひとこと」を見て彼が言った。夏の話題だ。村の神社でセミの話だ。ぬけ殻がたくさんある。やかましいセミだが、考えてみると一週間の命だ。セミよ夏の太陽のもと恋をして力いっぱい鳴きたまえ!というセリフに思わず感動した。 そうだ、セミ同様、われわれも考えてみれば短い命なのだ。夏の夜の花火が美しいのは間もなく消えるからだ。あれが長く消えないと、しまいには飽きてくる。 短く消えるから一層美しいのだ。
はじめにふるさと柏のなつかしい写真が出て、それが宮日新聞なので記念になるので切り取って貼ってるよ、おぉたァ、たまげたでぇ、柏の昔の写真には、段々畑が山の頂上まで見える。宮崎でいろいろと活躍しているのやなぁし、楽しみに見とるで! 廣谷良徳さん
「ふるさとの思い出」 須ノ川方面に至る山道がハッキリ写っています。この山道を歩いて柏中学に通った須ノ川地区や大浜地区の生徒のたいへんさがわかる。毎日歩いた。入り江を船場というのは、昔、焚きもの用に集材された山の木々を、ここから船で関西方面へ出荷した船着き場であったことから。…波もない内海は天然の良港だった。青く澄んだ静かな海は まるで美しい湖のようでした。昔は漁がさかんで、早朝、何艘もの漁船が焼玉エンジンの音を響かせて港に戻りました。網元は橋村、増屋、末弘、増六など。戎網や栄網の船に乗り組む若者の網子が多勢いて活気がありました。「かめや旅館」の村尾は映画館もやっており、上映日は午後からスピーカーで歌謡曲を流し賑やかでした。島倉千代子や三波春夫の歌が山々に響きました。村尾のカネちゃんは時には手製の大きなポスター看板を描きこれがなかなかの腕前でした。 柏崎出身の戎崎さんから、その頃の過酷な労働ぶりを思い出して手紙をもらいました。~四国の南予の柏崎は平地もなく、山頂まで段々畑ばかりでした。耕して天に至る。5月になると祖父が束にした麦を指し棒で突いて両天秤にして、山頂から家まで担いで降ります。その辛かったこと、思い出されます。 当時、学校では「農繁休校」で休校。麦刈り、田植え、芋植え、稲刈り、芋ほり等今では考えられない農繁休校。他県の同年代の者は記憶にないとの事。5月6月は子供にとって苦痛の月だった思い出ばかりです。あれから50年過ぎてやっと嫌だった麦畑が綺麗に見える今日この頃です。
今朝のサインボールのお話し、いろいろ工夫されたんだなぁ、ど感心しきりでした。好奇心をそのまま形にする流石だなぁと思いました。私も宮交時代にいろいろなことをやりましたが、樫元さんには脱帽です。毎朝学習をしているような気分です。では、また、明日の紙面を楽しみに! 大塚町渡辺
「話し方教室」の8月のお知らせです。8月7日(水)です。7月は台風のせいで実施できませんでしたので久しぶりになります。テーマは、七夕さま、夏休み、紫陽花など…8月は個別にハガキは出しませんでお気をつけ下さい。自分史も毎日、宮崎日日新聞が出ております。そのうち話し方教室になります。DVDは大阪の「話し方教室」をのぞいてみます。お楽しみに!見物歓迎! 8月8日は「立秋」です。残暑がきびしい中に気がつくと立秋!
樫元さんの「ラジオは友だち!」は凄く人気がありますよ 「人気歌手登場」「サントラ盤紹介」「女の子役やりたい等」 会社の方が持ってきてくれるのでコピーして皆で読んでいます。樫元さんの「自分史」一番の人気! 一般の人が知らない裏話や写真等懐かしがっています。前にも言ったと思いますがアニメランドのファンもいますよ、 みっちー7月29日(月)
評判が良くて結構です。自分史ですから長くて…今はアニメランドです。「おやじバンド万歳!」があり、終わりの頃に「話し方教室」です。公民館のみんなで15人が記念写真をとり、その中にみっちーもいます。 土日も掲載です。8月中ごろまでつづきます。宮崎の美女や、よかにせが出ます。
番組特製のはがきを神谷さんからもらったことがある。とおっしゃる真理さん、そもそもブログで「番組の思い出」を書くきっかけは神谷さんとの会話でした。「樫元さん、イベントを終わってみて何人の声優が宮崎にきたのか、多いでしょう!」といわれ、年に春夏秋冬のイベントにアニメランド公録があり、かならず声優さんを呼びましたので…ときには二人よぶこともありました。
年間6人としても10年間やりましたので60人です。神谷さんや野沢雅子さんのように何度も来ていただく人もあります。「その人たち60人の横顔を書いたら…」と言われました。そうだな、と思いました。私ひとりでゲストの送り迎えをします。
私でなければ書けないこともあります。神谷さんの発想です。それがきっかけです。ブログがもとで「ラジオは友だち!」という宮日の自分史に発展しました。
番組作りのご苦労や裏話がとても興味深いですね~。また昔のアイドルや、当時も今も大活躍なさっている声優さんのお名前が次から次へと出てきて本当に懐かしいです。樫元さんは、そんな方達と言わば一緒にお仕事をなさっていた訳で…☆ 芸能界の方と私たちファンの間を取り持つというお立場には、見えない所でこんなに大変なご苦労あったんだなぁ~と、感銘を受けております。 「心構え……常にチャレンジ精神」 『他より抜きん出るためにザ・ベストテンがとった方法とは、安易につかず困難にトライするという「チャレンジ精神」でした。』 この記述、何だか今の私の心に突き刺さりました…(^_^;)
(丁度、新しいスキルアップを目指して頑張ってみようか…と今、少し悩んでいる事がありまして…。) 驚いたのは「MRT歌謡曲ベスト20」にはリクエストハガキが毎週1000枚も…!?しかもご自身で目を通していらっしゃった…? もし、そんな樫元さんがいらっしゃらなかったら「アニメ特集をして下さい」というハガキは陽の目を見なかったかもしれないし、アニメランドという名番組も生まれなかったかもしれませんし、県外の私は樫元さんにも出会えていなかったと思います。 リクエストハガキを子供が自分のお金で買って投函する、という行為はたいへんなコトなのです。わずかな自分の小遣いの中から出費するのです。そこに書かれていることは、ほとんど「本音」です。たった数枚のハガキをこんな風に大切にして下さる方がMRTにいらっしゃった事が、あの大きな番組を生み出した…。
なんというプロフェッショナルな考え方でしょうか。 ブログにも書かれていましたが、樫元さんがMRTのアナウンサー試験に合格して下さって本当に良かったです。 高知県の真理 7月22日
7月9日、なつかしい江尻圭子さんから電話があった。久しぶりだった。歌謡曲ベスト20のお相手だった。「ラジオは友だち!」で「愛のホロスコープ」のところで私のことを書いているので、しかも良く書いているのでうれしいわ~と、確かに江尻さんの星占いはぴったり合っており、ささやくような甘い声でBGMにのせて言われると、なんか信じたくなるような雰囲気になった。美人で、二ユースワイドにも出ていた。江尻さんの甘い声はラジオに合っていた。現在は東京在住なので、宮日新聞が?とおもってきくと「みんなが宮日に写真まで出てるよ!」と電話で知らせてくれた!と、喜んでいた。
7月17日、MRTの春山会長と田中局長が夕方家に来た。宮日に自分史にでておめでとう!といってメロンを持ってきた。私は宮日がMRTに在職した私の手記を取り上げてくれ2ヵ月にわたってのせることに驚いた、と言った。東京の江尻さんには東京支社からその記事が載った宮日新聞を送っていたから、と田中局長が言った。そしてニッポン放送の兵頭頼明くんはブログを見て驚いていたそうな!とにかくおめでとう!と満足して美味しいマンゴーを食べてくれと言って帰った。春山会長は上機嫌だった。
エレベーターで昇降口で上がるときだった。事務の成美ちゃんが、す速く現れて「私もトシちゃんの都城にいったのよ!」と停止のボタンを押しながら早口で言った。「え~あなたもトシちゃんファンで!」「そうなの~」と言ってエレベーターはドアを閉めて上がった。それだけの会話だったが、30年まえの状況がフラッシュバックで現れた。私はその頃トシちゃんにインタビユーするために都城市民会館に行っていた。同じころ彼女はチケットを握りしめて座席券でトシちゃんが現れるのを待っていた!都城コンサートの熱気がまだ伝わってくる。 宮日の自分史の記事で田原俊彦のインタビューの出会いが、こんなことで現れるとは!新聞の記事の不思議さである。彼女は夢みる乙女で私は30代のおっかけマン、トシちゃんは明星、平凡で表紙を飾るスター、22才の青年だった。まぶしいくらいの青春時代の思い出である。 7月19日
「うれしかったラジオの採用」 宮崎市 船ケ山洋之 65 「ラジオは友だち!」を拝読させていただいている元リスナーの一人です。他人の人生史にはあまり興味がないのですが、偶然目にしたお名前に、もしかしてと思い、ごみの日に出すところだった新聞の連載初回から読み直しました。そうそう思い出した。ラジオで名前を呼んでもらえたのは人生でたった一度だけですから。リクエスト曲はビートルズの「涙の乗車券」、小学5年生ではなかったかと思います。当時名前を呼んでほしくて何回もはがきを出した気がします。うれしかったです。いなかでは小学生がビートルズを好きだといっても賛同してくれる友だちはいませんでした。お母さまが進学資金を工面されたこと、そのお母さまのために大学を休学されで看病されたこと、深く読み入りました。大病されたとのことですが、その後はいかがですか。これからもますますご活躍されますよう祈念します。7月17日
7月9日の「窓」欄から、 私の声の王子様 今、宮日新聞を読む時間がより楽しみである。自分史を樫元 洋さんが書いておられる。高校時代はラジオから樫元さんの声がよく流れていた。歌謡曲はもちろん、洋楽の大部分は樫元さんからの情報が多かったと思う。ソフトな語り方と正確な発音は、いつまでも耳に残っている。ハガキを読んでもらえたあの頃みたいに、わくわくしつつ紙面を見ている。声の王子様です。 ふみ代 67歳
梅雨お見舞い申し上げます。今年の雨は九州南部に集中しておりましたので、心配しておりました。ご自宅の方は大丈夫でしたか!ご無事であることを願っております。 福岡市 珠里子
7月3日、大雨が続き近くの集会所に避難しました。みんな避難してきて夜もゆっくり寝られませんでしたが、話しがはずみ結構たのしかったです。世話役の人、ごくろうさんでした。
「ラジオは友だち!」という題名で自分史を書き手記を投書してから二週間がたった。いまちょうど「歌謡曲ベスト20」のところだ。ブログの件数も一日90件をこえて届く!さすが県紙、宮日だ。読む方にとっては毎日連載のほうがけっこう楽しい。 宮日のいちばん先に見ますよ、と富永さん、富永さんは県の教職に長くいた方で介護サービスで一緒にいる方だ。 俣野さんから連絡があり、延岡の金子裕則さんから連絡がありました。なつかしい、お世話になりました。電話がほしい‥との伝言でした。電話での話よりメールで、と、そのほうが楽に話せます。脳出血の後遺症で会話はどうも…とお伝えください。
ラジオは友だち! おめでとうございます。こんなに明るい自分史を待ち望んでいました。樫元さんの登場!それだけで胸がわくわくします。楽しみです。大塚町、渡辺綱ともさんより、
まえ神武さまの中継のとき江平の歩道橋の上から渡辺さんとテレビ中継したことがある。そして宮崎放送の社内報でもなにか書いてもらった。宮日の自分史に渡辺さんの書いた愛犬の物語りは胸をうった。ああいう自分史ならまた読みたいとおもった。自分史といえども立派なエッセイである。渡辺氏のおほめにあずかり光栄だ。
宮崎市 宮本充博 66 MRTの樫元 洋アナウンサーの自分史が始まった。樫元アナウンサーといえば「ユアヒットパレード」です。中学高校と青春時代の多感な時代をラジオにかじりつき、樫元アナウンサーの独特な声質とパーソナリティーに癒され、受験では励まされたものです。1960年代はフランス女性歌手の全盛で、シルビー・バルタンの「アイドルを探せ」は衝撃的した。「夢みるシャンソン人形」に心が震え、2000年4月にマジョリー・ノエルの「そよ風にのって」は、私の人生の応援歌になりました。樫元アナウンサーはテレビでも大活躍し、TBS「ザ・ベストテン」の生中継リポーターは全国放送され、私はびっくりしたものです。愛媛県南宇和郡で、母親を早くに亡くされているのを自分史で初めて知りました。テレビで見る姿はおしゃれで、気さくな兄のような存在だと思っていました。自分史ますます楽しみです。応援しています。 宮日新聞、窓、欄から、7月2日
本田秀喜さんから電話があった。奥さんが玄関で「ラジオは友だち!」を読んで聴かせてくれた、という。新聞の切り抜きを見せてくれた。樫元君が書いてある。自分史だ。串間へいっていたので… いやぁ懐かしいですね~こんなたよりが一番うれしいな!と、樫元くんとは「ユアヒットパレード」の時一緒に仕事をしたね~いまどっか悪いときいたけど…半身不随? いや、いまなんとか生活できる、あの例のベスト電器の平原紀子さんはユアヒットパレードで君のことを褒めてたよ、うまいといってね~僕もうれしかったよ、僕がミキサーだったからね。近々家にお邪魔するよ!
これだけの大作をすばらしい!と感動しています。今日は朗読講習会です。毎日楽しみにしています。 小林市、水間さん
俣野さんへ 6月22日(土) こんにちは! 昨日はおめでとう!の電話がよくかかってきました。やっぱり宮日だなアと実感しました! 中には弟の家までお祝いの電話があり(日高)までびっくりしました。 大分の友達から「自分史」を載せてくれるなんてほんとにすごい!宮日はなんと味なことをするなア…と感嘆のハガキがきました。大分市、杉田 「ラジオは友だち!」連載へ祝意!、今春、担当の記者 (現・延岡支社長) より内々に樫元さんの起稿決定を聞き及んでおりました。マイクをペンに替えての「紙上版・超ワイド特番」と夢想したところです。長編ゆえのご心労を察しつつ、ご健筆を期しております。 川南の小屋にて、阿部
「窓」面あすから新連載、シリーズ自分史は21日付から、元MRT宮崎放送アナウンサーの樫元 洋さん(76) の「ラジオは友だち!」を掲載します。樫元さんは1943 (昭和18) 年、現在の北九州市門司区生まれ、愛媛県内海村 (現愛南町) で育ち、日本大学芸術学部放送科を中退して64年に宮崎放送に入社。「おくさま9:30」「MRTニュースワイド」などのテレビ番組でアナウンサーを務めたほか、ラジオでは「くらしのレーダー」や「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」、アニメーションをテーマにした「アニメランド」など、多数の番組を担当しました。2003年に退職後、公民館での話し方教室などを続ける中で09年、脳出血で倒れ、後遺症で右半身まひと失語症に。現在もリハビリを続けながら、16年に教室を再開しました。連載では、樫元さんがラジオ番組の中で次々と行った新たな挑戦のエピソードや、ファンとの交流の軌跡、言葉の魅力や人前でスピーする際のこつなどについて語ります。 宮崎日日新聞 6月20日の紙面から、
久しぶりに「話し方教室」の六月五日の会合にいった。見学者が一人いた。河野さんが「父の日」について話した。なかなか良い話だった。永 楽太郎さんは結婚式の「乾杯の音頭」について話した。 佐土原の那珂公民館で収録した「話し方教室」は2007年12月にカラオケで自己紹介してなごやかだった。 見学者の中安さんは来月から北海道へ行くとのことで宮崎にいるときは出席するとの事だった。一度自宅へお邪魔したい、と手紙にあったが、ブログを見た感想がどうなのか、を簡単でいいいので書いてほしい。それが先である。 「かんたん動画編集ソフト4」が手にはいった。田原先生にたのんで通販で(株)デネットで購入した。 日本語なのでなにかと便利だ。これまでのEDIUS編集ソフトよりもはるかに安価である。
「父の日」 河野ひろりん 皆さんこんばんは、六月に入り令和フィバーが一か月過ぎました。皆さんはこの一か月どのようにお過ごしでしたか? この季節になると街角に紫色のそれはそれは美しいジャカランダという花が咲きます。私もつい足をとめてスマホに収めたくなるほど美しい花です。 この季節はスーパーに梅が並びはじめます。梅酒のコーナーには氷砂糖それからホワイトリカー、それから梅酒のコーナーには重石、それからあら塩というのが一緒にならんでおります。わが家は梅酒もそれから梅干しも母が手づくりをしておりました。私が小さい頃、父親が晩酌をしている時、梅酒の中の青い梅がとてもとても気になって一つつまんで口に入れました。私はそのうちにほろよい気分になって父親の膝でうとうと眠ったことを思い出します。大人になってから梅酒をのむ機会がとても多くなりました。そのたびに父親のことをよく思いだします。また梅干は母がよく作ってくれました。母は白い割烹着をきて梅干しの歌を唄いながら作ってくれました。そのすっぱくって、塩っぱくっていい梅干は今はなかなかお店にはありません。わが家のほんとにすっぱい梅です。
この季節、といえば六月ですが、祝祭日がありません。そのかわり大イベントと称する父の日というのがあります。皆さんは母の日で精いっぱいプレゼントをもらったでしょうが、世の中は父の日という第三日曜日に企画しております。祝日ではありませんが、いつも働いているお父さんに愛情こめてありがとうと何かプレゼントをしてはいかがでしょうか!ちなみに母の日の平均予算は六千円をこえた!ときいております。金額ではなく心のかよったカードなんかいかがでしょうか!
「乾杯の音頭」 永 楽太郎 ただ今ご指名にあずかりました永 楽太郎でございます。本日は新朗がわの親戚を代表しましてひとことご挨拶を申しあげます。 本日は皆さま、お忙しい中まことにありがとうございます。さきほどから新朗新婦にたいしましてありがたいお言葉のかずかずをいただき私どもも感慨ぶかいものがあります。これから二人は助け合い、皆様からいただいた言葉を心に刻んで、責任をもって独立独歩であゆんでいきます。 私から若い二人に送る言葉です。それは世の中で大事なことは目に見えないことです。愛情や命、信頼、これは手にとって目に見えないことですが、とても大事なのです。
これを大事にして二人の生活の基礎としてください。すばらしい生活を築いてください。天気はいつも晴天とはかぎりません。はげしい雨の日や風のつよい嵐の日もあります。こんな時こそ二人の絆が試されます。心をひとつにしてこれを乗り越えてください。雨や嵐にビクともしない二人の城を築いてください。どうぞ皆さま方におかれましても今後一層新夫婦にご指導いただきますようお願いいたします。 それでは乾杯の用意をお願いします。よろしいでしょうか! 太郎くん、花子さん、結婚おめでとうございます。新朗新婦、ならびに列席の皆さまがたの今後ますますの発展を祝いまして、乾杯!(乾杯) ! ありがとうございました!
〇 結婚式は壮年はわりとむつかしい言葉をつかう、結婚式だからいいのである。威厳をもって言葉にふさわしい式の品格がある。 若者たちは若者ことばで言えばいい。 ゆっくりと言う。とくに乾杯の時はゆっくりと、 むつかしい言葉だから練習しておく必要がいる。とちらないように30回の下読みが必要だ。
〇 教室はエアコンが効いており快適である。だがビデオカメラで収めるには難点である。静かなエアコンもやはり無音ではない。録音するとはっきりわかる。短期間でも無音がいいので収録時だけでもエアコンは止めた方がいい。村角真知子さんと横山太郎さんは4月3日に収録した。
「花のバトミントン!」 村角真知子 皆さんこんばんは!今日は私が今しているスポーツについてお話しします。 昨年の9月ごろからバトミントンを週一回しています。きっかけは検診の結果でした。血液検査で、コレステローグ値がこれまでより大幅にあがっていたからです。それと50をすぎてずいぶん痩せにくくなりました。ふとるのは簡単ですが…そこでスポーツをしてみょうかと思いました。 そこで友達がバトミントンをしているのを思い出し加入させてもらいました。 週に一回、二時間ダブルスの試合形式で皆さんと汗をながします。和気あいあいとして楽しい時間です。それといままでまったく知らなかった人と仲良くやれたことです。二ヵ月に一回は飲み会を開いてみなさんと仲良くすごしています。今年の三月に検診をうけました。血液の結果は異状なし、体重は変わりませんが、欲をいえばちょっと痩せたかな…と思います。いま皆さんと過ごす時間が私のストレスの解消になり、仕事を頑張ろう、とする力になります。 建康維持のためつづけていこうと思います。
「転勤の日」 横山太郎 皆さん今晩は!本日はお忙しい中このような場を設けていただきありがとうございます。入社して五年間、たくさんの先輩がたにご指導をうけ多くのことを学ぶことが出来ました。ここでの日々成長を見守り導いていたことに深く感謝します。ここで学んだこと、経験したことは私の貴重な財産だと思います。その経験を今後に活かせるよう頑張っていきたいと思います。ほんとうにありがとうございました。
七月の「話し方教室」は七月三日(水)です。テーマは梅雨、田植え、七夕、朝顔、紫陽花、そのほかです。 DVDはビデオ編集機が入りしだいとりかかります。宮崎日日新聞の「自分史」は六月21日からです。皆さんが載るのは七月下旬です。 樫元 洋
佐土原Vクラブの会長から返事が来た。当クラブでもそのことで困っております。ウインドゥズ7のあと10にかわるのはわかっていますが、ビデオの編集ソフトがまだきまっておりません。後続のEDIUS編集ソフトもまだ発表されず…困っております。との話しだった。宮崎では「話し方教室」で作品を録画し、毎月話し方に役立てています。ウイドゥズ7が活躍しております。ところが故障して遂に10に替えることになりました。そこで困ったのがEDiUS編集ソフトです。これも変えなければなりません。他の会員のかたはどうされていますか? 私の提案では、もうEDIUSはヤメてほかのソフトにした方がいいと思います。
FILMORAなら安くて宣伝をしています。しかし外国製です。個人でつかいこなすには用語の多くは外国製の効果をつかいこなければなりません。やはり日本製がいいでしょう。(株)デネットが発売している「かんたん動画編集ソフト4」ならわかりやすいです。 すべて日本語です。2718円です。私が通販でとってみた。家庭記録や旅行などにぴったりです。字体もかなりある。ただし凝ったものはむかない。1万円ていどだせば各種の動画編集ソフトが市販されている。いや私はそんなに凝らないという方にお薦めのソフトです。三千円でおつりがくる。ただしなれないとはじめは「かんたんソフト」ではない。絵と音と字体の三体を思うがままに使うには慣れが必要だ。慣れると簡単である。 ブログ「ギターを持った‥」の閲覧数も三万人に達しました。
地元のA記者から電話があった。脳出血の経験されて体験をおしえてほしい、と言われた。経験してはじめて知るという事は多い。たいてい脳出血だからもう欲を出さずに静かに余生を‥と思う、私もそうだった。しかし言語聴覚士はちがった。「世をすてるには早すぎる。」とばかりに私に「鵬翔高校の生徒が見学にみえます。その子たちを対象に1分間自己紹介をしてください。」とおっしゃった。私が病前に「話し方教室」でその実演をしたのを話したから‥だ。もう私は‥と思ったが、将来ある高校生の為にひとはだぬいでやってもいいか~と思った。それからその高校生たちに「挨拶の仕方、面接のうけかた。」などを教えた。ただ真正面に話をせずに三方向に話す。始めは正面にむかい‥あとは一方向に7秒間つづ話す、話しの内容は①ちょっといい話し、②私の思い出、③よく見るテレビ番組 (なぜ見るか) 、のなかからその場の雰囲気にあわせてひとつ選ぶ、そして最後にまた名前を云って、ありがとうございます。で終わる。 練習が必要だ。このパターンを教えた。40人に教えた。女生徒たちの面接に幸多かれと祈った。まだ私もすてたもんじゃない、と自信を取り戻した。
「うまくいく面接」 「自分姿の再点検を」しましょう。登場する姿やお辞儀の姿勢が良いと、それだけで観衆に良い印象を与えます。逆だとその反対です。 ビデオで自分の姿を見ましょう。 「話し方」は「スポーツ」と同じです。これらはとても似ています。スポーツの特徴は「練習と作法・マナー」です。普段着で突然クランドに出ていって走っても良い記録を出すことはできません。
競技用の服に着替えて、準備体操をして、日々練習を積み重ねて、だんだん一人前の選手になり活躍できるのです。自己流の練習だけでは限界があります。上手な先輩や指導者に教えを乞います。
はじめは「マネ」からスタートして自分のものにするのです。スポーツほどマナー(作法)に厳しい世界はありません。マナー(作法)を軽くみる人は大成しません。 「話し方」も同じです。普段着でボサボサ頭で人前に登場したらどうでしょうか? お辞儀もろくろくせず、観客をちゃんと見ないまま「お地蔵さんしゃべり」をして終ったら観客はどんな印象を持つでしょうか。どんなにいい話をしてもマイナス点が多ければ自滅です。 まず話をする前から観衆に悪印象を与えて引かれてしまってはどうにもなりません。「話せばいい」というものではありません。観客は人間です。感情があります。感情に良い影響を与えるのはマナー(作法)です。これを軽く見てはいけれません。
お辞儀を丁寧にして観客に目線を配りながらゆっくり話すことです。
梅雨期は雨はイヤでしたが、学校の帰りに楽しみがありました。そのひとつに桑の実がありました。ヤマモモ、野苺とならんでこれが楽しみです。桑の実は、はじめ赤い実で熟れると黒くなります。この黒くなった時にとって食べると美味しいものです。この黒い色はアントシアンといってなかなか色落ちがしません。ですから、この桑の実を食べると口の周りがまっ黒になってしまい、「アッあんた桑の実を食べたでしょ!」 とバレバレでした。この桑の実、最近の研究では目に良いアントシアンがあのブルーべリーの3倍もあることがわかり、健康食品として注目されています。
五月の野いちごのシーズンになると、いちごが赤い実をちいさくたくさんつけて熟れます。無数に実ります。柏小学校の頃、野いちごを採りによく川原によって遊んで帰ったコースを思い出します。いちごをいれる箱を作ってそれに入れます。材料は当時どこにでも見あたった麦わらの芯をつかいました。農村では今、麦はほとんどみないけど、遊びにつかった野いちごをいれる麦の小箱はなつかしいです。
宮崎交通の創始者であった岩切章太郎さんは「やさしい話し」が得意だった。MRTが放送を開始した頃、当時 RMKの会長をしたことがあります。そんなことでお正月あけの「社員新年の挨拶」には岩切さんも出席して「お話し」をされることがありました。
「みなさんねえ、まだテレビ受像機が高いですね、ウチの近所の奥さんが、RMKは安くテレビを売らんじゃろかい?って言んですよ、テレビ局じゃからテレビを安く売ってくれるんじゃないの?「当時はまだ白黒テレビです。それでも一般の家庭では高かった。近所でテレビを買った家があると、人気番組のときはそのお宅にお邪魔して見せてもらう‥時代でした。 だから岩切さんは、RMKもテレビの電波を放送するだけじゃなくて、一般の人が安くテレビを買えるような月賦システムをなんとかできないだろうか?」というようなことを話す。聞いているほうは、「そうだなぁ!」 ときき入ってしまいます。
岩切さんの話はやさしくわかりやすい…という評判でした。 岩切さんが亡くなって数年後に関係者が資料整理に倉庫を整理していたら、原稿がたくさん見つかった。アドリブじゃなくて実は原稿があったのです。 岩切さんはお手伝いさんの前で読んできいてもらって、お手伝いさんが、「そこはちょっとわかりにくい…」と言うと、そうかそうか、と書き直し、これではどうかね、と言って、お手伝いさんがわかる程度の表現に変えて練習して、ちゃんと憶えて、あたかもアドリブのように話したのだ…ということがわかったのです。
話上手といわれた岩切さんでも原稿を書く。話がニガ手な私達が原稿も書かず、ぶつつけ本番でしゃべってもいいスピーチになる筈がない。
私らの幼年時代は馬車で奥の山から材木を載せてこの道をゆっくり下った。
馬車の馬は賢くて、道で幼児が遊んでいると立ち止まってくれた。いつだったか我が家の前で幼い弟が土遊びをしていたところへ荷を積んだ馬車がきた。馬が止まったので何故だろう…と綱ひきさんが御者台から下りて見ると幼児が遊んでいた…という実話がある。 しばらくしてその作業は「木炭トラック」に代わった。興味があったので見に行くと、発車まえに運転席の横にとりつけた円筒のカマに木炭や木を入れて燃やし煙をはきながら走った。この木炭トラックというのは戦時中に石油がなかったので、木炭の二酸化炭素を燃料とした代用エンジントラックである。道が田舎道なのに大きなトラックが大量に材木を積んで走るので、道の側壁の石垣がよく崩れた。タイヤの跡がへこんで雨の後はおおきな水たまりになった。私らはそれをよけながら通学した。
「命の値段 」 種子島沖はマグロがよく釣れる海なのです。宮崎県からは200㎞も離れた海上です。
日向市のマグロ漁船「幸吉(ゆきよし)丸」という小形船も3人が乗り組んでそこへ出漁しました。ドーンという音に起き上がって外を見ると船体の半分がなくなっているではありませんか!そして白い大きな船が通りすぎて行きました。衝突されたのです。あんな広い海なのに何故他の船が近づくのがわからなかったのか…といいますと、自分の船のエンジンの音が近くでしている。風向きによっては海は反射物がないので音が逃げていきます。いわゆる「音もなく近づく」状態になります。そのためこういう海難事故はよくあるのです。
種子島沖はサメが多い海域です。サメの餌食になってしまいます。ところが、日向市漁協の是沢幸広さんが船長として乗り組んでいた「幸吉丸」は、これからがドラマチックなのです。
日向市漁協でも「模範船長」といわれるくらい安全講習は毎回ちゃんと受ける、安全意識の高い是沢船長(48)は、万一に備えて折畳式のゴム製の救命ボートを積んでいた。これは、船が浸水すると自動的にガスでふくらみ、円形の2㍍くらいのビニールの屋根つきの救命ボートになります。
船長は他の二人に大声をかけて誘導して3人でボートに乗りました。アッという間の出来事だった…といいます。気がついた時は漁船の残骸も見あたらず、あてもなく漂流していました。
非常食の18枚の乾パンを分けあって少しずつ口にし、ゴムボートの底に2ヶ所穴があいてそこから海水が浸水するのをくみ出しなから、体は水びたしなので夜や明け方の寒さにふるえながら頑張っていました。しかし、3日目の朝になったら寒さによる体力消耗と空腹で「もうダメかもしれない…」と思うようになりました。その時です、かすかにヘリコプターの爆音が聴こえてきた。捜索ヘリだ!と身をのり出して手を大きく振り、幸いにも第10管区の「海猿/捜索機ヘリ」に発見され救助されました。この3人の命を助けたゴム製の救命ボートの値段は50万円。まさに地獄の1丁目から50万円で船長は3人の命を買い戻したのです。 「準備の大切さを実感させる」出来事でした。 ~宮日の記事から~
〇自己紹介で名前の言い方が早い人が多い。自分は有名人ではないので「ゆっくり・わかりやすく」言うのがポイント。 そして退場の時にテレかくしの変な格好をしない。 話の三大障壁の「支離滅裂、しどろもどろ、尻きれトンボ」を防ぐことにもつながる。
「女の一念」 皆さん、今晩は!樫元 洋でございます。今日は「女の一念」という話を致します。心をひとつにして念ずるの「念」であります。
これは本当にあった話です。 A子さんの住む町内で、お葬式がありました。その通夜の晩のことであります。亡くなったのは町内に住む「おじいちゃん」で、名は健蔵といいます。通夜は自宅で行なわれました。おじいちゃんはすでに座敷でフトンに寝かされ、顔には白い布がかぶされてありました。喪主の奥様、といってもおばあちゃんですが、喪主が弔問客に丁寧に礼を述べていました。
A子さんも「お悔やみ」を言ってしばらく隅に座っておりました。するとおなじく町内のおばあちゃまが現れ、喪主のおばあちゃんにお悔やみを言った後、「健蔵おじいちゃまの顔を見せて下さいね、」と言って、枕元ににじり寄り、そっと白い布をあけて、こう語りかけました。
「健蔵さん、私はずっとあなたが好きでした。でも縁がなかったけど、…ずっとあなたが好きでした。一度言おうと思っていたけど…今日言わないと「悔い」がのこるので言いました。冥土への旅、やすらかに行って下さいね。」
通夜ですからシーンとしています。 そんな中で、このおばあちゃんはハッキリ言うと、そしてふっきれたような笑顔を残して去って行きました。喪主も皆もあっけにとられました。が、その後でなんか「さわやかな」ような気持に包まれました。ちょっとダンディだった健蔵おじいちゃんらしい通夜でした。 それにしても、この「女の一念」というのは、凄い…と、私に語ってくれた本当の話です。男はそういうこと、口に出して言う勇気はないでしょう… 皆さん、ありがとうございました。 ~2分スピーチ~
私は幼少の頃から大工さんの仕事を見るのがすきだった。昔の大工さんはカンナとノミで長く仕事をして、できあがると立派な建具が出来た。魔法だった。カンナくずも好きだった。木の香りが好きだった。仕事を見ているだけでよかった。なにかたずねるとじゃまされそうでただみている見ているだけでよかった。いまでもシロアリなど部屋の修繕の時に大工さんが来て工具をつかい、たちまち直していく‥その手作業が好きだった。 私が「歌謡曲ベスト20」が終了して暇だった時に、自分の部屋がガラス戸であったが、障子だったらいいのになあ、と思っていたのを思い出した。さつそくあれこれ材料を買い三週間ほどで障子を作った。紙を貼ると立派な障子になった。「これ君が作ったの~」とみんなびっくりしていた。ひかりがあわいあかるさになりそれも好きだった。
趣味のウインドサーフィンを休みの日には楽しんでいました。今から二十五年まえのことです。青島や野島、宮崎港でした。やはり海のスポーツですから一人では心ぼそく誰かWSFをしている人はいないかなあ…と思っていると、見かけたのが日に焼けた川越育雄さんでした。すぐ友達になりました。川越さんはサーフィンもしていました。海についてはよく知っておりよき先輩でした。海のスポーツはまだする人も少なく、そのうち仲間がしだいに増えでいきました。冬に野島港の沖でWSFしていると季節風が吹き気がつくと私は沖に流されてしまいました。強い風なら上手な人ならうまくきりぬけて港に帰るところですがまだ下手だったのです。セールを上げて広げているうちに流されて行くのです。ダシとよばれる海流にのって、川越さんは野島港の漁船にのって助けにきてくれました。遭難の危機一髪でした。海のスポーツは面白いけれど危ないこともあります。10年くらい続け仕事がいそがしくなってやめました。ときおりウィンドサーフィンのセールを見るといつも川越さんを思い出します。
青島の10月の午後四時頃です。ウインドサーフンをしていて「この景色をカメラに記録しておこう、」 と気がつきました。10月ですから海にはだれもいません。ただ潮騒の静かな音だけが足元でしています。8月は海水浴で賑わっていたのに‥あの頃一緒に遊んだ岩松さんや井俣さんはいまも元気でいるかな?
若葉しげる五月、ちかくの広場では草野球の子供たちが集まっている。鯉のぼりが高く上がっている。子供の頃はどんなことをしても楽しかった。まだテレビもなかったしチャンバラや草野球などをして日の暮れるまで遊んだ。当時の遊びをあげてみよう。かくれんぼ、陣取り、輪投げ、ハガキで作ったパンとり、女の子ではママごと遊びなどです。ほかに、縄とび、はちまんとりとか、ビー玉あて、とか、リム転がしなどありました。
風かおる五月、連休がつづく、今年はGWが長いのでビックリした10日間連休だ!令和の日が入った。五日は「こどもの日」だ。鯉のぼりが屋根の向うに見える。TVではこの鯉のぼりを大量に子供が大きくなってもう飾らないので寄付をしてもらい「こどものくに」などで飾っている。壮観だ。風にそよいでいる風景はさすがだ。わが家でも男の子が大きくなって鯉のぼりをかざらなくなったので、かわりに女の子の方が「鯉のぼり」を飾るようにうったえる。緋鯉を上に飾って女の子の節句とし、それを祝った。
パソコンが変わった。これまでのウインドゥズ7から10にかわった。まえの7が良かったのだが故障してとうとう10にした。GWでふるさとに遊びに来た息子に買ってもらった。新しいパソコンはすごく良くて気に入っている。ただ7から10に替わったので、中身をすべて入れ替える必要があり、これに時間がかかった。遊びに来たのかパソコンのために来たのかわからなかった。テスト運転中も何度も呼び、私の方はわからないのである。しかし何度も呼び教えてもらいだいだいわかった。新しいウインドゥズ10で活躍だ!
MDというプレイヤーがあった。カセットより数段音が良くってソニーの製品で愛用していた。しかしCDに替わりMDはいつのまにか消えてしまった。私は録音で音を録っていたのでMDがなくなるのは困る。しかしソニーはとうとうMDをやめてしまった。愛用者の気持はどうなるのか、現在MDは私はONKYOの製品で音を出している。これは神谷明さんからもらったものである。いい音だ。ティアックの製品しかMDを扱う音響製品はない。天下のソニーよ、MDの愛好者はいるのだぞ!
新緑の杜をトヨタセンチュリーが走り抜ける!白いロングドレスにティアラを着けた皇后さまの姿が画面に写る。5月1日は新しいカップルが誕生だ。天皇陛下の即位の日だ。幼少の時「なるちゃん」と呼ばれた陛下が、被災者の前で手をとりあって話し合い「国民に寄り添うなるちゃん」天皇の誕生だ!
私の友達が市会議員に出た。女の議員か少ないのでやる仕事はたくさんあり町の下水道のことからいろいろあった。そのうち県議にでるという。女の決断というのは早い。決断してさっそく実行、県議に初当選!しかも大量得点である。彼女がMRTのスクーピーに乗って活躍する姿がうかびます。スタジオは下北方町の時代でした。
「深夜食堂」というマンガを見た。安部夜郎の漫画で306+税で小学館から出ている。プロローグに~夜12時から朝7時頃までやってる深夜の食堂で、けっこう客がある~客はいろいろだが、主人は男ひとりで、豚汁やビールなどメニューは限られているが「あとは注文してくれれば‥」作るとのこと~そこを舞台にちいさな物語が展開する。ひさしぶりに面白かった。少々くたびれた人たちが酎ハイを飲んで食事をとる。この時間だからいろいろなことがある。アイコさんは歌舞伎町のクラブでチィママやってるらしい。ある日のこと‥、 「深夜食堂」という名がついているのが面白い。
四輪自転車というのがある。自転車は二輪だがこれは四輪だから「たおれない自転車」である。軽快に走る。そして乗る時に倒れる心配がない。四輪なので…普通の自転車は倒れるので足で支えるが、足が悪い人はそれができない。 値段がすこし高い…しかし魅力だ! 脳出血で自動車を手離した者にとって魅力だ。 「けんきゃくん」いう名前で浜松市のオートバイの車体部品メーカーが発売している。 ところがアフターサービスなどのため九州ではまだ福岡だけである。はやく全国発売されてほしい。
「話し方方教室」のみんなです。4月は入社式や卒業式や桜祭りなど催しものが多い。五月はGWで話し方も休みです。今年は10日連休とか‥どうなるのかしらん。官公庁や銀行は休みだが‥。
「人の話くらぶ佐智」の田原先生が私のブログを見て「動画はいれましたか?」と尋ねるので、「最近入れました。」と答えた。そして見ると絵に加えてBGMや文字まで入ってるので「すごいですね~」といった。どうやって入れたんですか、と聞くのでビデオ編集機でいろいろして、奥村先生と完成品をいれるのです。 ビデオ編集機はなんぼくらいするのですか!アマチュア用だと約3万円ぐらいでしょう、と云った。私は佐土原ビデオクラブに入り会員はEDIUS編集ソフトを持っている。情報誌はビデオサロンという月刊誌が(玄光社)でている。編集については上手い、下手があるので‥研究してほしいと伝えた。
平成も終わりがみえてる時代に、ケータイ持たないパソコンが使えない私です。そのため娘が婿と一緒に3人でスマホを見ました。婿は「いい声してるね。」と感心していました。私は久しぶりのなつかしい声に癒されました。声や言葉はその人の優しさも出ますから、今の私は本当に病院で出される薬よりもよく効いて嬉しかったです。私は狭心症をかかえたままですので注意しなければなりません。ボチボチ身の回りを片ずけねばと考えてます。 ブログ「ギターを持った渡り鳥最新版」を見た名古屋の文より、
前略、昨日は樫元さんから撮って頂いた写真を見せて頂きました。 こんな風に出来るんですね。 枠が丸くカットされているので人物が優しい表情に見えますね。 樫元さんのブログを会社の人に見せたら すごい!すごい!の連発でしたよ、私も鼻が高かったです。 みっちー
宮日のすこしまえの記事を見た。脳出血のレポートで私の体験談を記事にしている。2009年6月に突然脳の病気になり入院した。出血だが外部からはわからない。脳の内部出血だ。手術が必要だ。6年間の経過を記者に話した。はじめはなんもわからかった。気がつくと小学4年生の学力にかえっていた。言語聴覚士の逆瀬川さんについて簡単な言葉について学び、すこしわかってきた。この病気は子供にかえるものだ。しかも体が不自由だ。右半身が麻痺している。パソコンがあるから会話は出来る。せっかく積み上げてきだものが無残にも消えていく。しかし趣味の記憶がすこしのこっている。それをテコにしてすこしつづ分野を広げていこう!がんばろう。 佐智の田原先生と奥村先生のパソコンの指導も的確で良い。
久しぶりに友達がきた。民放クラブのメンバーだ。重信さんと諸岩さんだ。年会費を払うのに「ついでの時にとりにきて」といったら、こころよく返事をして桜ヶ丘に来た。月一回の例会があるが私は足の都合で休みつづきだ。四月は役員改選があり会長も前田さんにかわった。黒木さんに帰りだけ送ってもらえばUMKだけでもいけるが‥重信さんはパソコンの調子が心配していたが‥まもなくウインドゥズ10にかわりなんとかできるだろう。携帯用パソコンでなく、「話し方教室」の月会報も据置型パソコンでないとうまくいかない。
失語症乗り越え「話し方教室」再開 元アナ樫元さん 2016年5月18日掲載
MRT宮崎放送の元アナウンサー樫元洋さん(73)=宮崎市桜ケ丘町=は、脳出血による失語症を乗り越え、約7年間休止していた「話し方教室」の再開にこぎつけた。宮崎市内であった教室では17日、復活を待ちわびた受講生15人が笑顔で出迎え。樫元さんは「やっと日常が戻ってきた」と喜びをかみしめた。
樫元さんは愛媛県出身。「電波が届いて、偶然見ていた番組でアナウンサー募集していた」MRTに入った。ニュースや音楽番組を主に担当し、10年以上続く人気番組の司会にも抜てきされるなど、約32年間、最前線で活躍。「経験を生かし、多くの人に話す楽しさを伝えたい」と、2003年の退職から約3年後、近くの公民館で話し方教室を始めた。
そんな樫元さんを09年6月、脳出血が襲う。一命は取り留めたが、右半身がまひ。物の名前が出てこなかったり、相手の言葉が理解できない失語症を患った。医師から「完治は難しい」と告げられた。手術後、言語聴覚士の逆瀬川倫明さん(57)によるリハビリが始まったが、写真を見せられても言葉が出てこない状態に「自分はもう終わった」と絶望した。妻・万喜子さん(70)も献身的にリハビリに付き添ってくれたが、気力を取り戻せず、5年以上の年月が流れた。劇的な回復につながったのは、逆瀬川さんの「助手の高校生のスピーチを指導してほしい」という一言。少しでも自主的に取り組んでもらおうという思いからだった。
アドバイスをするうちに、教室を開いていたころの情熱が戻ったという樫元さん。苦しみながらも、懸命にリハビリに取り組むように。単語しか話せなかった状態から、わずか1年で、60秒スピーチも可能になり、逆瀬川さんも「ここまで話せるようになった人は見たことない」と驚く回復ぶりだった。約7年ぶりの教室は終始、和やか。「この日を待ちわびていた」「分かりやすい授業だった」。終了後、樫元さんを囲んだ受講者は、口々に再開を祝った。
「話すことの楽しさを伝えていきたい」と樫元さん。困難を乗り越え「生きがい」を取り戻した姿からは「話す楽しさ」が存分に伝わってきた。
失語症を乗り越え7年ぶりの「話し方教室」に立った樫元洋さん
マツダ・ロードスターに乗っていたことがある。 いい車で郊外に出かけるとオープンカーにしてドライブした。いわゆるあそび車に属しているんだが、実用車としてもつかっていた。車の好きな人達があつまるクラシック・カー・クラブにもたまには出かけた。塩入常雄さんもそこで会った。フォックス・ワーゲンの5ナンバーでなかなかの車マニアと見た。その彼とは最近「けあフル」であった。すっかり忘れていたが彼のほうは憶えておりむこうから「樫元さん、」と声をかけてきた。 けあフルは体に故障がある人の宿泊施設である。車の話で20分ばかり話した。裁判所に勤務しており定年後はベンツのオートマチック車にのっていたが、体の故障があり、ついに親戚にゆづったという。
体のどこがわるいんですか?と聞くと「筋肉がしだいに衰えてくる」県病院の医者もはっきり原因がわからず、あとはリハビリで対処するしかない、という。今車イスであるが元気だ。 指がだんだん固くなり不自由だ、という、パソコンはできない、という。「それは本当に残念です、パソコンができると自由が広がるのに…」と思ったが…。服のポケットからまえ所持していたフォックス・ワーゲンやベンツの写真を出して見せてくれる。 この塩入いう名前はめずらしいでしょう、「両親のおじいちゃんが長野から来ました。宮崎に生糸の商売でやってきたのです。」と言った。宮崎に来たとき土地が広くのんびりしているのに驚いたそうだ。私は塩の出しいれをするのが商売て塩入といいます。 わたしは大宮高校を出て東京の裁判所の事務官養成所に行きました。先輩に南 邦和さんがいます。友人も多く、MRT、もとはRMKといいましたが小山さん、河野さん、井口さんの奥さんは親しかったです。小山さんはいい校長でピアノを弾いて聞かせたりして……こっちは聞いているばかりだが…一生懸命にしゃべるので、知ってる人の名前が出るので面白かった。
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2月6日の「話し方教室」です。永 楽太郎さんです。
私の成人式は宮崎市民会館でした。宮交のバスガイドさんの紺の制服がカッコよかったです。でも成人式はふるさとで式に出たほうがよかったな、地元の同級生たちとボウリングをしたり、酒を飲んでチドリ足で帰ったり‥したほうがよかったな、と思うのです。
皆さん、こんばんは!永 楽太郎です。今日は成人式について話します。成人式は若者が大人になったことを知らせるために自治体が祝福するありがたい行事です。成人の日は1月の第2月曜ですが、以前は1月の15日と決まっており、その日に成人式がありました。私の成人式は、かれこれ40数年まえのことです。宮崎市役所の前にありました市民会館での式に参加しました。市民会館は今はありません。宮崎市民プラザになっております。新調したスーツで参加をしました。振袖をした女性にまじって宮崎交通のバスガイドさんが紺色の制服で集合していたのを記憶しております。当日のニュースでも大きく紹介されていました。私は宮崎市内に就職したので同級生のいる地元での参加はできませんでした。顔みしりもいなかったので式が終わると同僚とすぐ帰ったんです。せっかくの行事でしたが、ガイドさんとの2ショットもなく、心残りのある成人式でした。もう一度若かりしあの頃にかえりたい。そしてこんどは地元の同級生と一緒に参加し、式がおわったらウキウキした気分でドライブをしたり、当時はやっていたボウリングをしたり、そこそこ酒を飲んでチドリ足で帰る自分を想像するのです。
3月6日、話し方教室です。ひさしぶりに5人そろった。やはり3月はお別れのシーズンです。蛍の光になつかしい学舎がうかぶ、それとか「ひな祭り」「結婚式」などがこの時期だ。みんな上手になった!もし間違ってもやりなおすのが「教室」の強みだ。なんどかやって完成した方もいる。それが教室の特徴だ。練習の場である。 蛍の光 河野ひろりん 孫のひな祭り 永 楽太郎 綾の雛山 横山太郎 息子の結婚式 村角真知子、では河野ひろりんさんから聞きましょう。 音声が聞こえます。
「私の蛍の光」、おもえば懐かしい学舎、学生を送るときに思い出す友だちの顔‥いつになっても私は学生の未来に「幸多かれ!」と祈るこころです。
「孫のお雛さま」、初孫のサキちゃん、子供の大きくなるのは早いもの‥鹿児島までお祝にいった!ジージやバーバのお節句でもある。祝い酒もはずむ、
「綾の雛山」、横山さんが今年は見に行きました。おひなさまの稚児行列もあるよ、綾町では女の子のお祭りである。 息子の結婚式は、はじめは心配だった。しかし教え子の祝いの言葉と新婦のやさしさにふれてホっとした。