「ラジオは友だち!」   (50)  「朗読ボランテァ養成……辛抱強い生徒ばかり」    まだ私が放送部にいた頃です。県の盲人福祉館(現在の県立視覚障碍者センター)から、都城市と小林に市に朗読ボランテアの指導に行ってもらいたいという依頼をうけました。「やっぱり諸県弁では困るから…宮崎市はNHKに頼んだから」と言うのです。盲人福祉館では全国規模でアナウンス朗読テープを作り、宮崎もそれに加わりやることになった、ついては指導をプロのアナウンサーにたのみたいと…小林、都城には車で現地へ行き、半日かかるが月に一回指導をたのみたい、費用はすくないが…というのです。私に話がまわってきました。皆いそがしいから…君どうかね?勤務のほうは考えてやるから、ということでした。マイカーで現地に行く仕事です。都城のほうはほどなく別の人が受け持つことになりましたが、小林市のほうは長いこと携わりました。朗読講習会は月1、2回実施され、視覚障害者のために声のカセットを吹き込むボランティアを養成するために行われた。現在はパソコンですが、朗読は最終的には声による部分が多いので、苦労は絶えません。教室の会場は社会福祉会館などがよく使われていました。テキストは「初めての音訳」やNHKの「アナウンス教室」など多数あります。

「小林朗読友の会」の会長さんは水間節子さんで堀之内悦子さんとともに組織を運営していました。森田龍子さんや采女みずえさんは朗読がとても上手で、アナウンサーとして使える技術があるなぁ~と思いました。3時のお茶の時間には会員の手づくりクッキーなどか用意されておりファミリーな雰囲気で勉強てきる。九州南部のアクセントで苦労する受講生もおおいが、辛抱強くトライする姿には感心しました。はじめは義務的に講師を引き受けていましたが、ボランティアの皆さんが熱心にやっているのを見て、私も積極的になりました。年間を通じて変わらず仕事をし、録音したカセットテープの本数が増えると喜びがありました。東京の本部から厳しいアクセントの手直しがくるとすこししょげるが…気をとり直して頑張る。参加者は当時、女性が多いなと思いました。根気強さの差でしょうか。 私はひまをみて浄信寺の落慶法要の撮影をした。浄土真宗のおおきなお寺です。堀之内さんのご主人が寺の総代であったのでビデオカメラで撮りました。絢爛豪華な儀式でありびっくりした。会員の柳川けい子さんは「嫁取り唄」のふるい唄「「ごぜむけ唄」をカセットにとりダビングするなどいろいろな交流がありました。いつも季節になると小林のいちごを送ってくれます。地方で仕事をするとそこの人と会えます。15年続きました。

 

「ラジオは友だち!」   (49)   「おやじバンド万歳……ユニークな番組好評」                 「おやじバンド万歳!」の放送は月曜日深夜1時25分から15分間。ローカルのマイナー番組ですが、内容は充実しており、関係者の注目を集めました。制作は映像製作、イベント企画・運営などを手掛けるAVC放送開発が担当し、高度な編集技術も見ごたえがありました。「ニューレトロ倶楽部」は「ニューレトロクラブ」として実在し、通常はライブハウスとしてレンタルステージ形態で営業しています。番組は月一回の録画で、収録は深夜まで及びました。すべて宮崎人の手によるもので、出演バンドも地元の人達なので宮崎弁がとびかって面白い。音楽をやっている人は器用な人が多くて、毎回の台本セリフもうまくこなしている。シナリオなのか本人の生言葉なのかわからないくらいだ。特に編集長の役で出演している国府秀紀さんは実際にタウン誌「ラタム」の編集長である。丸い体型でユーモラスな役どころで目立っていました。台本も書く器用人です。テレビの世界では監督という用語は使わないが、監督という言葉がピッタリのプロデューサー九鬼清臣さんは、往年の超人気番組「11PM」や「シャボン玉ホリデー」が大好きだったという面白人間。タウン誌とテレビ映像のコラボレイションを目指していました。そんな人たちで作るユニークな番組でした。

音楽バーのマスター役で出演した樫元。MRTの局アナを定年で退職後は、フリーで活動中。ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト宮崎地区の司会も担当、当時エレキバンドをアナ仲間で組み市民会館で演奏するなど、おやじバンド世代の音楽にはおなじみでした。この番組では司会者ではなく音楽バーのマスターとしてひょうきんなキャラクターを披露しました。「おやじバンド万歳!」は当初3カ月の放送予定でしたが、評判がよく延長されました。制作関係者と営業関係者のたまものです。放送時間が深夜ではありましたが、ユニークな地元制作の音楽番組としてスタッフも活気がありました。収録現場となったMRTmiccの観覧者向け入場整理券は15分くらいでなくなる、プラチナ・チケット状態でした。第2回のバンドコンテストは2月1日われ、60組の中から予選を勝ち抜いたバンド10組が出場、パフォーマンス、ビジュアルが審査基準に加わり、そろいの衣装で登場したり、ダンスを交えたりして音楽の楽しさをアピールしました。グランプリには新富町の「Sound Night Flight」が、延岡市の「森山バンド」が準グランプリに選ばれました。番組は「おやじバンド・バトル」としてシリーズ化されました。謎のサックスマン(田中孝一さん)、マスター樫元と竹内真理アナ。清武町の「エリア339」というライブハウスで行われました。  -2019年8月9日、(金曜)―

 バーのマスター樫元、カメラは坂元良和さん、私のいい表情を撮ってくれました。

「ラジオは友だち!」   (48)   「おやじバンド万歳……放送で演奏の場提供」      1980年代末から90年代、アマチュア音楽が隆盛を極め「ライトミュージック・コンテスト」「ポプコン」など全国規模の大会が開かれました。 その中からプロになった人は数多い。しかしプロにはならなかったが趣味として脈々と音楽を楽しんでいる人も多い。年令的には団塊の世代に入る。子供も孫もいる。そんな「おやじバンド」にスポットライトをあて、演奏の場を設定し観客を集め、テレビ放送しようではないか、との夢を実現したのが「おやじバンド万歳!おやじバンドコンテスト」です。熟年層向けのフリーマガジン「ラタム」を発行するパームス企画が仕掛けました。テープ審査などを経て10バンドがMRTミック・ダイアモンド・ホールで2008年2月3日に本選演奏を行ないました。テレビ特番として後日放送されました。ラタムに「おやじバンド万歳!」リポートとして会場の様子が載りました。あの名コンビが特別に復活!ラタム世代の青春を彩った名ラジオ番組「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」のパーソナリティー樫元 洋さんと薗田潤子さんが登場!超満員のお客さんであふれる熱気!予想以上の人気に関係者もビックリ!宮崎日日新聞も取材してくれました。平均年齢40歳以上のバンドが競い合う「おやじバンドコンテスト」おやじバンド万歳!(パームス企画主催) が3日、宮崎市のMRTmiccで開かれました。一次審査を突破した県内の10組がフォークソングやポップスなどを熱演し、会場を沸かせた。

熟年世代を音楽で勇気づけようと初めて開催、出場者たちは、おそろいの衣装を身に着けたりダンスを加えたりと存分にステージを楽しんだ。しっとりと聴かせる曲あり、リズミカルな曲ありと、音楽の多彩な楽しさをアピール。会場には家族や知人ら約500人が詰めかけ、熱い声援を送って盛り上げていた。グランプリはブルーグラス・スティション(宮崎市)、準グランプリは座・今一歩()に決まった。ブルーグラスのリーダー島田谷次男さん(51)は「楽しみながらやっている。演奏の機会と賞をもらえて幸せ」と喜んでいた。30分枠のテレビ特番が好評だったので、同年7月から週一回の番組として放送されるようになりました。内容はニシタチにある音楽バー「ニューレトロ倶楽部」を舞台に、「おやじバンド」メンバーたちが演奏とおしゃべりをくり広げるもの、マスターは往年の人気アナ樫元、アシスタント女性ばかりのバンド「艶女(あでーじょ)」の美樹ちゃんが出演。常連客に「座・今一歩」メンバーの佐藤さんや鈴木さんが顔を出すなど面白い顔ぶれで、毎回アマバンドを紹介しました。    ―2019年8月8日、(木曜) —

「ラジオは友だち!」   (47)   「わくわくゲームランド……新分野、一から勉強」     ゲーム音楽専門のラジオ番組 「わくわくゲームランド」が、1988年秋にスタートしました。ローカル局では初です。日曜の午後5時から30分番組でした。「アニメランド」の中で「ゲーム音楽専門が欲しい」という声がありました。う~ん、例のないことであるが、やってみよう! 担当の伊藤佳子アナウンサーは23歳で、ゲーム音楽はあまり知らないが、勉強中とのこと。私、樫元は新しいもの好き。初回はリクエストを受けセガの大ヒットゲーム「アウトラン」の全曲をかけました。ゲームセンターにあったゲーム機からの収録です。週一なので、これからいろいろと曲をかけられます。番組オープニングを紹介します。 ~(BGM) ゲームファンの皆さん、こんにちは!話題のゲーム音楽やコンピュータゲームの新情報をお届する「わくわくゲームランド」の時間です。お相手は樫元 洋と伊藤佳子です。ファミコン、パソコン、MSX、PCエンジン、アーケードゲームなどから次々に登場する話題の作品、話題曲をリクエストでお届けする「わくわくゲームランド」 スイッチ・オン!BGM~ 担当しているアニメランドという番組でゲーム音楽の特集をしたのですが、そうしましたら大勢のファンからゲーム音楽のリクエストが届きました。それがきっかけで「わくわくゲームランド」が出来ました!それで勉強しました!カルチャーショックでした!ゲームのジャンル別ではロールプレイングとかシューティング・ゲームとかシュミレーションゲームとかアドベンチャーゲームとかスポーツ・ゲーム、いろいろあります。音楽のほうもいわゆる原曲といゆうものとか、アレンジバージョンなどいろいろあります。ドラクエのようにオーケストラ・バージョンがあってN饗がやっているものなど…

はじめに番組の形態からどうするか考えました。楽曲はこれまでの軽音楽のように4分前後で終わらない。場面でちがう、それに合わせて楽しいメロディ、怪獣が出る恐怖のメロディなど長短がある…各場面にわかれているので全部かけた場合などにCMはどうするか? つまりすべてが新しいものなのだ!2回目は「イース」からかけた。アドルとフィーナが物語る古代の冒険物語です。甲斐くんには学校の帰りに放送局に寄ってもらい、いろいろとアドバイスをもらった。 1988年11月23日の速報、日本レコード大賞特別企画賞にドラゴンクエストが受賞したんです!私はおもわず感激で涙ぐんでしまいました。ゲームやゲーム音楽もいよいよ脚光をあびる時代になりましたね!いまボクの家族のなかで第3次ファミリー大戦があるのです!妹と弟がPCエンジン派、パチパチと火花か散ってましてね、僕はメガドライブ派、う~んまったく困るなあ!国富町のファイアー樹裕くん、 ゲームQ&Aです。スーパマリオ3を買ったんだけど時間がものすごくかかる。それでワープの魔法の笛まで行く仕方を教えて… トリトーンで4年も行き詰まっている迷える子羊よ、私が教えてしんぜよう。 リクエスト番組のあらたな世界を開拓した番組で、楽しんて取り組みました。     —2019年8月7日、(水曜) —

 

「ラジオは友だち!」   (46)   「芦田豊雄さん……宮崎舞台の物語未完」     1990年のアニメランド公録には草尾 毅さんがゲストで来ました。高知市の峰友真理さんが手紙で思い出を語ってくれました。草尾さんは「若い」というより「初々しい!」という感じ…ファンのどよめきのような反応と、次々に展開される工夫を凝らしたコーナーに、戸惑いながらもいつも以上にはしゃいでいる感じがしました。この時の草尾さん、まだ20歳をちょっと過ぎた位でデビューしたばかりですものね…。それに、優しくて暖かい樫元節。オープニングのご挨拶や耳に馴染んだBGMなど全てを懐かしいです。集まったファンは1000人近くだと話されていましたが、まだ年若い学生さんばかりを相手に番組を取り仕切るのは、大変なご苦労もあったのではないでしょうか…番組は中身が濃く、今聴いても全く古さを感じないものでした。 

先日、中学時代のアニメ友達2人が上京してきて、30年ぶりに3人でアニメランドを聞きました。恥ずかしいからやだって言ったのですが、無駄な抵抗でした(笑)。当時は若さのエネルギーに任せて色々バカやったなぁとか、アニメランド録音するのに毎週必死だったなぁとか、昨日の事の様に盛り上がりました。3人とも、住んでいる場所も仕事も全く違うものになってしまいましたが、あの頃の思い出は変わらないなぁと、でも、2人の子供はしっかりアニメファンに育っていてつくづく遺伝子って恐ろしい(笑)。2人は「子供にはしっかり勉強して欲しいんだけど」って言ってましたが、「そりゃ無理だ。同じ年の頃私達アニメに夢中で勉強してなかったやん」って私が突っ込むと、「それ言われると反論できない」ってため息ついてました。ネットも携帯もパソコンもない時代だったけど、いい時代だったと思います。 江夏さんは都城出身、「おねがいマイメロディ」「スクールランブル」などコメディ・ギャグアニメの作品を得意としています。

1994年、「魔神英雄伝ワタル」など多数の人気アニメのキャラクターデザインを手掛けたアニメ監督の芦田豊雄先生が、えびの高原アニメジャンボリーにゲスト出演しました。江夏さんが働くスタジオ・ライブの社長でもあり、アニメランドの活躍を知りノーギャラで二人でいっしゃった。大広間でサイン色紙を持ちファンを前にスラスラとワタルを描いた130人にである。 公録では、青島海水浴に来た客の一人として声の出演をしました。翌日は日南海岸へ、波状岩を歩きながら、「今こんなストーリーを考えているんですよ。薩摩隼人の一族が、この日南海岸の波状岩の海で活躍していた。その若者と海をわたってくる一族との間で戦争になる…」と語った。ワタルの続編のようだった。青島が舞台の物語は未完に…残念です。  -2019年8月6日、(火曜) —

 スタジオライブの芦田豊雄先生と江夏さん。アテレコへ挑戦したりワタルのサインで多忙だった。

「ラジオは友だち!」   (45)   「宮崎に来た声優……思い出DVD収録」    長崎市の斎藤佳子さんが 「OMBRE BLUE」 というアニメ同人誌を作りました。1993年のえびの高原でのアニメジャンボリーでは声優の安達 忍さんがゲストである話を聞いて、大ファンだった斎藤さんは興奮しました。ハガキで「宮崎へ安達さんが来るのですが、本当ですか?」と問い合わせ、委細をしらべ電話で参加申し込みをしました。後日「安達 忍さんinえびの高原」という色刷りの冊子をまとめました。昼食場所の生駒高原でご本人に遭遇してしまう!安達さんとは約1メートルの殆ど目の前である。遠まきに見守る参加者たち、公録会場はホテルの宴会場、たたみの、修学旅行で食事をする大広間です。

安達さんは薄いブルーのパンツスーツ(フード付き)髪には白いヘアバンドと、大人気アニメ「魔動王グランゾート」のキャラクターであるラビをイメージした服装でした。 「こんばんはーっ 安達 忍でーす!」と元気な第一声。「あらためてファンの皆へラビの声で挨拶をお願いします。「オレ!ラビ!やっと来たぜ地球によ、」。会場からはキャーという大歓声が。樫元「安達さんには小学生がいらっしやるそうですが、やっぱりラビやって!とかせがまれたりするんですか? 安達、あのねぇうちの子はもう飽きてるんですよ、勉強しろよとかいわれていますから…「安達さん、ここで一曲歌っていただきたいのですが…」と言うなり、また会場でキヤーキヤーと歓声が!あのここだけの話しですがアンチョコ見ていいですか?大丈夫です。構いませんよ!ここだけの秘密ということで、みんな聞いてますけとね! 目の前でご本人が歌う「どーだ!」。セリフの部分など、はまっててもう最高!でした。

 安達さんと一緒に声優に挑戦する「アテレコ・コーナー」で、安達さんから、それじゃあ水色のブラウス着たオネエサマ!なんと斎藤さんに!おわって地に足がついていない状態で会場へ戻りました。 2016年、かってアニメランドの公録に来てくれた声優さんたちの写真をDVDに収め、「宮崎に来た声優たち!」というタイトルを付けて、古くからのファンである宮本さんに配りました。宮本さんから、お便りがありました。 「ゲスト声優さんを見ると、その時代に人気だったアニメがわかりますね。アニメジャンボリーに参加したときゲストだった声優さんの写真を見て、この時に行ってたなーと懐かしくなりました。芦田先生と樫元さんのツーショット写真は初めて見た気がします。樫元さんの様子がわかる写真も見ることができ、「話し方教室」を続けられ元気そうな樫元さんのお姿に安心しました。素敵なDVDありがとうございました。大切にしますね、」    ―2019年8月5日、(月曜) -

えびの高原アニメジャンボリーで日高さんと安達さん、1993年8月、樫元と前田アナ、

「ラジオは友だち!」   (44)   「野沢雅子さん礼状……昔の記念写真に感激」      野沢雅子さんからこんなはがきをもらいました。樫元さんから頂いた賀状を見て、うれしくてお手紙出しました。写真をブログに使ってくださって、もう最高にうれしくって言葉では言い表せません。ありがとうございます。 横浜市 野沢雅子 平成20年元旦  以前、宮崎市の「こどものくに」で行った公開録音で、会場でサインが当たった車いすのファンに野沢さんと影山ヒロノブさんが駆け寄って一諸に撮った記念写真のことです。野沢さんにとって、そしてあの子にとっても忘れられない場面となったことでしょう。このとき影山さんもドラゴンボールZのテーマソング「CHA―LA HEAD―CHA―LA」を歌い、公録ゲストでマイクを持ってニコニコ笑顔で記念写真に収まっていました。 2002年5月、番組はすでに終わっていましたが、スポンサーからぜひにと言われ、「こどものくに」で公録をしました。ゲストは神谷 明さんと古川貴子さんでした。以前担当だった伊藤佳子、遠藤玲子アナウンサーに話すと喜んで祝電をくれました。 祝アニメランド公開録音!伊籐佳子。私も参加したい気持で一杯です。ファンの熱気がなつかしい!私はいま東京の文化放送で契約アナウンサーの仕事をしています。たまにラジオのニュースを読みますので宮崎でもながれているかも知れません。4月からみのもんたさんのラジオ番組のアシスタントをしています。皆さん、今日は思いっきり楽しんて下さいね。 

北陸金沢市から、皆さん、おひさしぶりです。遠藤玲子です。私も会場に行きたいです!あのテーマ音楽と最初のナレーションはいまでも忘れられません。あの頃のリスナーからいまでも手紙をもらったりしてますよ、皆さんと一諸の楽しい時間をすごした思い出は私の大切な宝物です。いま金沢市に住んでいて北陸放送でラジオの仕事をしています。アニメランド魂をもつ仲間の一員としてスペシャルの復活を心からお祝いします!  茨城県の石岡市に今は住んでいる俵屋美津子さんからも祝電がとどきました。アニメランドファンの皆さんおひさしぶりです。NGみっちゃんこと俵屋美津子です。ひさびさの公開録音ですね。ファンの皆さんも感激でしょう!私が担当をしていた頃はNG5でもりあがっていました。夏のえびの高原アニメジャンボリーもなつかしいです。私は今、水戸黄門の故郷、茨城県に住んでいます。声の仕事としてはナレーションの仕事をしています。最近は子供と一緒にアニメ番組を見ています。番組がなくてもアニメランドは不滅です。また皆さんにお会いできますように! 俵屋美津子   -2019年8月4日、(日) -

  

「こどものくに」でサインが当たり野沢雅子さん影山さんと記念写真を撮るファンの女の子、カメラマンは樫元。

「ラジオは友だち!」   (43)   「野沢雅子さん……大スター声優と共演」     1992年春、宮崎市のこどものくにで、野沢雅子さんの公開録音がありました。ドラゴンボールシリーズの孫悟空、孫悟飯役など大スター声優さんです。天気に恵まれ、園内の知福川には白鳥そして芝生にはかわいいクジャクバトが遊んでいます。「アテレコに挑戦!」には、美穂ちゃんが手を上げました。

野沢雅子さん   オス!オラ悟空だ、ゴールデンウィークの一番人気がこのこどものくにだってな~ 緑はいっぱいあるし、海はすぐそば、お洒落なレストランもある、第一広々してるし、のんびり出来るのもいいなぁ、こんなステキな遊園地が近くにあるなんて宮崎の人はうらやましいぞ、あれ、御飯がいないな、ちょっと目を離すと、すぐどっかにいってしまうんだから、おーい御飯!   悟飯ちゃん     なに~お父さん、ここだよ、こっち、  野沢さん   あっ~あんなところにいる!   御飯  お父さんもおいでよ~   野沢   ポセイドンに乗ってるぞ! アノすいません?    美穂ちゃん   はい?    野沢  あのポセイドンに乗ってるウチの息子はお金払ったかな?   美穂   イエまだ払ってもらっておりません。   野沢さん   えぇっ 御飯!   御飯    お父さんもおいでよ、たのしいよ!    美穂   あの子供さん、子供さんのお父さんの方でしょうか?   野沢   そ、そうなんだ。  美穂   あのお子さんは子供自動車と子供汽車、そしてアストロジェットとスワン大ボートに乗りまして、今ポセイドンですから合計1万円いただきます。   野沢    ひぇ~1万円!   美穂   ウソですよ!   野沢  ほらっ びっくりさせるなよ!   美穂   こどものくには何にのっても安いですよ、ポセイドンは350円です。ところで今日ここでなにかロケでもあるんでしょうか!   野沢   あぁそうだよ、ドラゴンボールZの公開録音に呼ばれてなぁ、二人で来たんだよ!   美穂    あら私大ファンです。勇者ロトはかっこ良くて可愛くて…   野沢   それはドラゴンクエスト!俺たちのはドラゴンボールだ! ホラ、界王拳かめはれ波のほう!   美穂   もしかして本物ですか!   野沢   そぅ、おらが悟空で、ボクが御飯です。  美穂   わ~サイン下さい。   野沢  あぁ、いいよ!何にしよう、   美穂   いま何ももってないので、ハンカチにしてください!  野沢   うん、いいぞ、 これでいいか!  美穂   御飯ちゃんのサインも下さい!   御飯   え、ボクも?ボクのはお父さんのサインと一緒だよ! (拍手)

野沢さんに、これから挑戦したい役はなんですか!と聞くと 「お姫様、ふふふふ」。 どの会場でも、勇気がある子が多かった。皆の前であこがれの声優さんと一緒に台本の前でアテレコをする!勇気がいリますが、一生にそうはないチャンスです。皆堂々とこなして立派でした。はじめ応募する人はすくないだろうと踏んでいましたが、大人気コーナーになりました。  -2019年8月3日、(土) ―

 青島へ行って友人の井俣 徹さんのハイビスカス号でパチリ、倍友子フリーアナも一緒に、

「ラジオは友だち!」   (42)   「高山みなみさん……人気キャラ一人二役」    1990年8月、宮崎空港で公開録音をしました。「ミスター味っ子」の味吉陽一、「名探偵コナン」の江戸川コナン、「魔女の宅急便」のキキなどヒット作品は数え切れません。 「鎧伝サムライトルーパー」の伊達征士でブレークした中村大樹さんと出演。声優には中学生の松田陽子ちゃんが挑戦しました。

高山さん   おれ、味吉陽一です。究極の味を求めて宮崎にやってきました。宮崎の味といえば日南海岸でとれる海藻でつくった、ムカデのり、これ名前はへんだけどツーはその珍味を高く評価している。それに須木や諸塚などの山間部でとれる栗をあんにした栗おはぎ、ふつうおはぎといえばアズキで作ったもんなんだけど、これは栗をあんにした珍しいおはぎだ。それに日向の平兵衛酢、昔、日向にすんでいたへいべえさんという人が発見した、とても香りのいいかんきつ類で、これをとれたてのイワシの刺身にふりかけて酢ミソで食べると、もうなんともいえない極上の味に舌がとろけるんだ~ アッ、むこうで手をふっているのはペンフレンドの陽子ちゃんだ~ やあ陽子ちゃん、 オレ宮崎に来たくてうずうずしてたんだ!さっそくこれが宮崎の味ってところへ案内しておくれよ!   陽子ちゃん   いやーね~陽一くん、会ったとたんにそんなこと…そんなに食べたいものがあったら一人でいったらどう、   高山   いゃあ、そんなに怒らないでお願い、  中村大樹さん   宮崎の味をもとめてちゃか!   高山   あッ叔父さん、中村の叔父さん!   中村  叔父さんとはひどいね、せめてお兄ちゃんにしてくれ、   高山   ゴメンねお兄いさん、この間まではなんとかというグルーブで忙しそうだったけどやっと閑になったわけ、     中村  やっと閑になったわけじゃないけど、陽一くんの味の旅のお手伝いをしょうと思って陽子ちゃんをつれてきたバイ、 そうだ宮崎の味といえば夏大好評なのがひや汁タイ   高山   ひや汁?   中村  じゃ陽一くんと一緒にひや汁を食べに行くバイ!   高山   そうだ行こうよ!   陽子ちゃんもホラね、機嫌なおしてお願い!   中村   ひや汁を食べさせる店といえば橘通のあのパン屋のとなりにあった、陽子ちゃんあれ何とかいうパン屋の…    陽子   グーチョキパン店!  高山   それ知ってるよ…かわいい女の子がいる店でしょ、   陽子   その子私の友達よ!名前はキキっていうの、   高山   キキね、うんうん、よく知ってるよ    中村   すぐそこだよ、いってみよう!   高山    やっぱり行くの?  陽子    あっ着いたよ、ここよ!陽一くん、ちょっと待っててね、キキ呼んでくるから…    高山    いま、いるかなぁ~   陽子  いるわよ、キキ、   キキ   なにい、  陽子   ほら、いるでしよ!私の友達の陽一くん、今宮崎に着いたの!   高山  あっ陽一といいます、よろしく!   キキ   あら陽一くん、いつもテレビで見てるわよ、ミスター味っ子!  高山   あぁ、どうもありがとう!   キキ   グーチョキパンも宣伝してね、手づくりで極上の味よ!   陽子   キキ、一緒にひや汁食べに行かない、   キキ   ありがとう!でも今お手伝いで忙しいの、また今度ね!     高山さんの一人二役はまさしく名人芸でした。    -2019年8月2日、(金曜) —

 高山さんの音声を聞きたい方は「なつかしのアニメランド②」で聞けます。

「ラジオは友だち!」   (41)   「日高のり子さん……ファンの心がっちり」      1991年5月、宮崎市のサンリブ宮崎で日高のり子さんの公録が行われました。日高さんは「タッチ」の朝倉 南や「らんま1/2」のあかね、「となりのトトロ」のサッキ、「ふしぎの海のナディア」のジャンなど大人気です。来場者は1000人を超えました。「アテレコに挑戦」は、大学受験生と進路指導の先生の設定。生徒役は国富町の明くんが射止めました。

 日高先生  皆さん、私は進路指導の先生です。就職や進学など自分の進路について悩みのある方はいつでもいいから相談にいらっしゃい、  門前 明くん  先生…    先生  あら、きみは悩むことないんじゃない。成績は抜群でトップだし、東大でも二ューヨーク大学でも都井岬でもどこへでもいけるから…(会場笑い声)   明くん   ボク、東大へいくのをやめようと思うんです。    先生  なんですって!でどこえいくの!    明くん   代々木アニメーション学院です。どうしても声優になりたいんです。   先生  最近そんな人が増えているわねぇ~声優ったって誰でもなれるもんじゃないんだわ…ある程度素質ってものがないとね~お家の人はなんて云ってるの?    明くん  大反対です。(笑)    先生  無理もないわ~  明くん  でもボク、林原めぐみさんや安達 忍さん、高山みなみさんを見るとすごくあこがれるんです。    先生   アラ誰か忘れてない、もう一人、有名な人    明くん  有名な人ですか?有名な人という人と言うと…野沢雅子さん?    先生   ううん…もっと若い、ホラもっと美人のチャーミングな、ホラいるでしょう、私みたいなのが…   明くん   あぁ、佐久間レイさん!   先生   ちがうよ、ホラホラ~らんまの馬鹿~   明くん   あぁ、あかねさん、日高のり子さん、(笑)    先生   うれしいわ~ ん…チュツ!    明くん  日高さんのファンなんですか!   先生   そうなのよ~いいわね~あのセリフ… タッちゃん、みなみを甲子園に連れてって、 冗談じゃないわよ、あんなヘンタイお断りよッ、同じ人とは思えないわ、(爆笑)    明くん   先生には子供さんが…    先生   いるわよ、ジャンって云うのが…これが生意気でね…「ボクはなんて頭がいいんだろう、」なんてね   明くん    先生、すごい、声優みたい!   先生   あら私もホントは声優になりたくてね、   明くん  代々木アニメーション学院、うけたんですか!   先生   そう、でも残念ながら落ちたのよ、   明くん  それでしかたなく東大へ、   先生   そうなの、でも都井岬の東大よ!(会場拍手!) 

大人気声優とアテレコできる幸運にめぐまれ、日高さんのチュッにどぎまぎした明くん、 ラッキーだったですね。宮崎に来てほしい声優第1位になった日高さん、ファンは離しませんでした。      —2019年8月1日、(木) —

    

  サンリブ宮崎の5階は日高のり子さんを一目みようと満杯だった。よろこぶ日高さん!

「ラジオは友だち!」   (40)  「神谷 明さん……ゲストで何度も来宮」    声優界の第一人者・神谷 明さんには、アニメランド公録には何度も来ていただきました。これまで何年かおきに宮崎にきて「樫元さん!元気ですか?」と当時の話しをして楽しみます。この企画も神谷さんとの話しからおきました。「宮崎に来た声優は何人ぐらいになりますか?」と神谷さんから聞かれ「ざっと50人です。年間5人として10年間ですから、と私、その声優とのいろんな話をいまだから話せる。という角度で思い出話しをしたら…」と神谷さんから提案され、私のブログ「ギターを持った渡り鳥最新版」に掲載しました。以前、私はウインドサーフィンをやり、神谷さんは大抵1泊2日で来て、二人で日南海岸に潜ったり水泳をしたりして海を楽しみました。当時、神谷さんは「私の知っている人は偉くなってアニメから遠ざかっていく人がおおいので…」とこぼしました。私はそうではありませんよと言いましたが、似たような状況だな、と思いました。50歳からは「そろそろアニメは若い人にまかせて…」管理職としての仕事があると言われます。あまりおもしろくない管理職の仕事よりこうやって若い人にまじっていたほうが私はずっと幸せなんだけど…と思います。しかし現実は…

宮交シティのアポロの泉で公録をしたとき、ゲスト声優の富沢美智江さん(聖戦士ダンバインのエル、フィノ・きまぐれオレンジ☆ロードの春日まなみ)役に台本を渡し打ち合わせをして「?司会は樫元さんがするのかな?」と驚いたそうです。てっきり私は現場指揮で、もっと若い人が司会をするのかなと思っていました。と公録が終わってからそんなふうに云いました。富沢さんはJACで殺陣を学んだという社会の縦序列がわかる人らしい感想でした。 公録は1985年の第一回は富永み~なさんサンリブ宮崎、第2回はこどものくにで竹本孝之さんと宮里久美ちゃんだった。1991年には関 俊彦さんは都城の母智丘の桜まつりに来た。3月23日(日)で肝心の桜はあと一週間まてば咲くところであった。堀川 亮さん、日高のり子さんはサンリブ宮崎へ、1995年神谷 明さんと吉田古奈美さんはえびの高原へ、井上喜久子さんと荒木香恵さんがシーガイア・パラダイス、ガーデンへなど、挙げればきりがありません。10年で50人ですから。 主に県内の情報を掲載する月刊誌「タウン宮崎」の女性記者が、その頃アニメランドのことをきき取材に来たことがあります。当時、人気番組で演じていた声優さんばかりが宮崎のイベントに集まって来ているので「うわー」と声をあげ「これはカラーぺージにします!」といって写真を借りていきました。野沢雅子さん、神谷さん、田中真弓さん、林原めぐみさんらが紙面に大きくカラーで載りました。  -2019年7月31日、(水曜) —

「ラジオは友だち!」   (39)   「神谷 明さん……ファン向け声優講座」      1995年8月、公開録音「えびの高原アニメジャンボリー」のゲストは、声優界の第一人者・神谷 明さんでした。 ファンをあつめて「アニメ大学の学長」として「声優講座」を開いてくれました。声優に挑戦してくれたのは池田 瞬ちゃん、やりとりが楽しいアテレコを紹介します。神谷さんは補導の先生役、池田瞬ちゃんは「不真面目な生徒」役です。

神谷  最近じゃ、夏休みになっても昔のように休みもとれん、課外は多いし、まつりや大会もあって補導など引き受けるんじゃなかった、こないだも、まつり宮崎でゆかたで濡れたまんま夜おそくまで遊びよる、ウチの生徒じゃなかったけど怒りちらかしやった、また今日はえびの高原でアニメなんとかいう集まりがあって、まぁ最近風紀が乱れとる、ということでこんなところまでこんならん、エライこっちやエライこっちゃ、   池田   先生!   神谷   ありゃ、おめーどこの生徒か?    池田  先生、ぼけないでよ、ワタシこないだ四高定期戦のときに帰りにゲームセンターで補導されたA子よ、    神谷  お~そうじゃったのう、あれから真面目にやっとるか?    池田  ヤ~ねえ先生ったら、真面目にゲームやってるわよ、   神谷  ん、そうかそうか、って、なんだとコラ、こんなとこにゲームセンターがあるか?    池田   えびのにあるはずがないでしょ!今日はアニメ、アニメよ、アニメぐるいが集まってるのよ、   神谷   ワシゃそれで来たんじゃ、    池田  先生、たまにはこんなすずしいところもいいじゃない、補導をわすれて今日は一日のんびりして、露天風呂でもつかって帰りなよ!    神谷  そうだなぁ、チョイナ、チョイナと~そんなことはしておれん、さっきもなヨソの高校の男子生徒で妙なのがおったぞ、木刀もってな、いきなりワシにむかって斬りかかり、「くらいよ、こわいよ、せまいよ、こわいよ、面倒終太郎ロッカーに入ります!」と云うんじゃよ~ワシはびっくりしたぞ、(爆笑!)    池田   そのコかっこよかった?    神谷  うん、ちょっとな、イヤ、ワシの若い頃に似とったなぁ、(笑う)    池田  私、高校生には興味ないのよ、高校生の男の子なんてコドモよう、    神谷  だからお前はこどもだって云うんだよ、イヤイヤだからお前は不良だって云うんだよ、どこでそんな表現を憶えてきたんだよ、    池田  私の彼なんてね、カッコイイスポーツカーをもってるのよ!    神谷  なんだと     池田  バイクじゃないよ、スポーツカー、ユーノスロードスター    神谷    またまた、赤い色のじゃろうが、お前はまた騙されとるな…     池田  ちがうわよ、ほらシティハンターの冴羽 燎みたいにカッコいい人なの、   神谷   そんな男があぶないんじゃ、スポーツカーをぶっとばしながら 「君のひとみは僕の秘孔をついた!このまま一緒にどこまでも行こう!」 なんて言うんじゃろう、バカなことを!

池田さんは 「憧れの神谷さんと一諸に、とても幸せ」 と感動です。神谷さんは「最近はアマチュアの人もみんな上手で困っているんですよ」 と苦笑していました。声優は世界観を一瞬にして作り上げる能力があります。変幻自在です。その魅力にとりつかれて声優にあこがれるファンが多いのです。     -2019年7月30日(火曜)、-

「ラジオは友だち!」   (38)   「塩沢兼人さん……クールな役ぴったり」    「機動戦士ガンダム」のマ・クベ役をはじめ、クールなキャラクターや美青年がはまっていた実力派の声優・塩沢兼人さん。「聖闘士星矢」では牡牛座のムウの声を務めました。静かで優雅で気品のある、しかも聖闘士の中では超強といわれる超能力を持つ戦闘力のムウ、セリフを言うときもどこか神がかったところがあった。塩沢さんの声がピタリとあっていた。ハイスクール鬼面組の物星大くんはちょっとおかしくてギャップに笑ってしまいました。まつり宮崎のゲストに来てもらいました。人柄がよく「歌が唄えないのならかわりにコカコーラをイッキに飲んでもらいます!」という設問に「では…」とイッキに飲みほした兼人さん!拍手の中で「かわいそう~」という声もありました。後で考えてみると酷な設問だったな、と反省しました。次の日に日南海岸で広い青い海を見て岩の上でのんびりしていました。宮崎の海がよくあっていた。

以前、MRTから文化放送に移った伊藤佳子さんが、アナウンサー時代の思い出などをまとめている私のブログ「ギターを持った渡り鳥最新版」に感想をメールでくれました。彼女はアニメランドの担当でした。「懐かしい写真、大変嬉しく拝見させていただきました。アニメランドの歴史が写真入りで 細かく網羅されていて…本当に読みごたえがあり、懐かしかったです。樫元さんのアイデアマンとしての才能、企画力、実行力を思うと感心します。樫元さんは、夏で台風で飛行機が飛ばず、声優さんが来られない場合に備えて、前日大阪まで来てもらい、そこから飛行機を待つといった対策を取るなど、どのイベントも成功の影で いい意味での細やかな計算・配慮をされていました。さすがは樫元さん、と思いました。今になると やりがいのある一方で ご苦労も多々おありだったことと思います。 田中真弓さんは、公開収録されている姿を拝見しましたが、スパッツのような衣装で、お声も体型も変わらず!……野沢雅子さんは「愛川欽也さんのお別れの会」で挨拶されていましたが、声の張りもエネルギーもすごい方ですね。日高のり子さんとは ボイストレーニングが同じ先生だったり、子供の年も同じだったりで、たまにお話させて頂いています。ラジオの歴史に残る番組に関わらせていただいたことは本当にありがたいことです。」 公録のために入るものをノートに書いたりして細かいところを一欄表にする特技は伊籐さんでした。助かりました。アナウンサー仲間たちとの番組は、皆それぞれに楽しかったです。呼ぶ人は声優の第一人者ばかりで、その人たちを宮崎に呼んで楽しもうと言う企画ですから…今考えるとドキドキものでした。

    

 まさかあんなにはやく別れの時が来るとは……貴族的な声質から美形の二枚目まで塩沢さんの声にしびれたファンは多い、アテレコに挑戦で実際に聞いてみよう。「なつかしのアニメランド①」で聞ける。

「ラジオは友だち!」   (37)   「ポスター発送……三角形の箱思い付く」      番組を聞いていると、賞品をもらえる!私はあれが好きでプレゼントをよく出しました。とは云っても初めは何がいいのかわからず、リーブル書店の店先で500円の図書券を買いました。5人ぶんの2回で5000円です。それを出すと結構応募がありました。店にいくと店長が「こないだの券は番組用だったのですね!それじゃウチから次はこんなものはどうでしょう?」とただでいいもの品物をくれました。「ありがとうございます。」ともらってきました。当然リーブル書店からのプレゼントです。田中書店もポスターなどたくさんもらいました。アニメのポスターなど一般の人にはなにか、とおもわれるかもしれませんがアニメのファンには貴重なのです。ポスターをもらって賞品にするのはいいが発送はどうするのか?当選者はよろこんでいる。ポスターが届いて見るとシワがよっていた、では困ります。段ボールの△型の中にいれて送ります。このカタチを思いつくのに時間がかかりました。

以前「歌謡曲ベスト20」のプレゼントのときに考案しました。段ボールの会社に交渉して「ポスター送り用」に作ってもらいました。絵入りのポスターは送る時の手間を考えると…やめてしまいます。しかしポスター送り用の段ボールがあれば簡単です。 下敷きとかアニメの載っている商品は結構あります。その声優さんが来た時にサインをもらっておきプレゼントにします。よろこばれました。「シティハンター」とか「セーラ―ムーン」の出演声優さんにサインを入れてもらいました。

おもしろいのが「サインボール投げ」です。公録に来ているファンは「現場にいくとうまくするとサインぐらいはもらえるかも…」と思ってきます。しかし新進の歌手はそうあっても、アニメ公録にくる声優はそういきません。そこで考えました。色紙でなくサインボール投げはどうだろうか?ボールにサインをしてもらい、彼(彼女)の曲を背景にサインボール投げをする?面白い!これは大受けしました。50個にサインは大変ですが…現場にきて「大変ですがファンが大喜びするので…」と頼むと気持よくやってくれました。野沢雅子さんも影山ヒロノブさんも喜んでやってくれました!モチ投げと一緒ですから会場の誰かにサインが当たります。投げて受けとりやすい玩具のテニスボールですが、それにサインが入っているから貴重なのです。 「魔法のハガキ」は公録用のプレゼントです。あとできっと喜ばれるだろうとこの「魔法のハガキ」をしました。公録で当たった人は葉書に自分の住所と名前をかいて声優さんに渡す、すると当日の公録の感想をかいて東京の消印がついて返事がかえってくる。実際は飛行場で返事を書き東京で出してくれるのです。ゲストの送り迎えを私がするから可能なのです。二度宮崎に来た声優さんなど気持のわかる人に頼みました。当たったひとはラッキーでした。神谷さんなど気持のわかる人にはよろこんで書いてくれました。当たった人には「好きな声優本人から」返事がくる魔法のハガキですから…    -2019年7月28日、(日) -

  サンリブ宮崎でお正月に野沢雅子さんと伊藤佳子アナ、1月3日公録、

「ラジオは友だち!」  (36)  「高知からの手紙……魔法にかかった空間!」            それから、各コーナーで運よく指名された方へプレゼントがこれまたすごいのです。サイン色紙をはじめ、サイン入りの特大ポスターにハンカチにTシャツに台本に、それからゲストさんも欲しがっていた他では絶対に手に入らないプロモーションビデオなどなど…。 ファン垂涎のこんな非売品ばかりが、これでもかこれでもか!…と出てきます。そして更に驚いたのは、プレゼントの中には握手券、記念写真の撮影券まで! プレゼント袋や封筒の中身が紹介されるたびに会場は騒然となり、大きな拍手と悲鳴に包まれました。(後で聞いたのですが別の公開録音では「魔法の手紙」なんていう、ゲストさんから後日ハガキが届くというファンなら泣いて喜ぶ企画もあったそうです。)  ふと気が付いたらゲストの草尾さんもハイテンションで、何だかもの凄くはしゃいでいらっしゃる…? それに負けないくらいのテンションで会場の全ての参加者も盛り上がり、幸せに包まれていて、みんなの笑顔と歓声ばかりが溢れていて…。 そんな全く信じられないような魔法にかかった空間が、そこにありました。 公録が無事に終了した後も写真撮影会や質問コーナーやフリートークが続き、幸せな夜はまだまだ終わりません。次から次へと出てくる至福の驚き。私と友人達は、後にこれを「幸せの樫元マジック」と呼んでいましたが…。

2日目も、もの凄いサプライズが待っていました。 午前中には野外ステージでのトークショーがあり、その後にはなんと参加者全員との握手会が…!ここでも樫元マジックの炸裂です!当初は予定されていなかったらしい握手会。樫元さんがマネージャーさんを通して、プロダクションに特別にお願いして下さったのだそうです。 「ローカル番組には、ローカル番組のやり方があるんです。」 「私は昔、少年時代に大好きだった巨人の王貞治選手にサインを貰った事がありとても感激した思い出があります。あの時と同じ感動や喜びをリスナーさん達にも味あわせてあげたいのです。」 これは、後に私が樫元さんと何度かお話をさせて頂くようになってから聞いた言葉です。 えびの高原アニメジャンボリー、あの夢のような場所に参加できたリスナーさんたちも今は立派な中年世代です。大人になり社会の荒波にのまれ、家庭を守りながら嫌な事も楽しい事も経験して必死に今を生きているかもしれない…。 だとしても、あの感激と感動に胸を熱くした時間を懐かしく思い出して「また明日も頑張ってみよう」と、時々はそんな幸せに浸るのもまた素敵な事ではないかな…と思います。  高知市 峰友真理   -2019年7月27日、(土曜) —

 会場は畳敷きの大広間、ファンと声優さんの距離がすごく近いのが特徴でした。

「ラジオは友だち!」   (35)  「高知からの手紙……他とは違うイベント」    早速、開催局である宮崎放送に電話を掛けたところ、丁寧な対応をして下さったのが、なんとラジオ番組の仕掛け人であり責任者である樫元アナウンサーでした。 しつこく質問を繰り出す県外の私に、参加する為の詳しい説明を1つ1つ繰り返して下さったのです。私の期待は、この時に大きく膨らみました。 「これは、今までに参加したイベントとは違う何かがありそう!」 この時に、同じくゲストとして招かれていたのは人気がうなぎ登りだった林原めぐみさん。 これは参加権の競争率が高そう…と心配した事でしたが、どうやら何とか詰め込んで下さったようです。そんな経緯で参加できたえびの高原アニメジャンボリーは最高に幸せな2日間であり、また驚きと感激の連続でした。朝10時に宮崎交通本社を出発したバスの列はえびの高原までの長い山道をゆっくり走り、途中のコスモスが綺麗に咲くという公園で芝生に座りお弁当を広げていたら…なんと二人のゲストさんがすぐ近くで同じくお弁当を食べているではありませんか! また、全部で9台のバスに行きと帰りで順番にゲストさんが同乗してトークを展開して下さるという信じられないサプライズプレゼント!初っぱなからビックリしましたが、これはこの、ことごとく意表を突かれる2日間の助走でしかありませんでした。

緑深い山道をひた走り到着したえびの高原はひんやりと涼しく、盛夏の暑さを忘れさせてくれる気持ちの良い台地でした。 少し硫黄の薫りが漂う場所で記念写真の撮影会があり、そして会場となるえびの高原ホテルへ移動します。 少し休憩して皆でバイキング形式の夕食を頂いてから、いよいよ待ちに待ったラジオの公開録音です。普段のイベントでは草尾さんと私達ファンはステージと客席という敷居があり、高い場所にいるゲストさんを客席の遠い位置から見上げている訳です。 でもアニメジャンボリーの会場はなんと畳で、ステージと客席はなんとなんと雛壇とお座敷です!ゲストさんは少しだけ高い位置にいて、立てば目線はほぼ同じ…。 マイク無しの地声も聞こえるし、表情も吹き飛ぶ汗もすぐ近くで分かるし…。それまでに私が参加したイベントではあり得ない事です。期待に満ちて始まった公開録音!ファンとしてはゲストさんの動く姿を見ているだけで幸せなのに、生歌あり、質問コーナーや生セリフのコーナーあり、アフレコのコーナーあり…と、内容は盛りだくさん!中でも県外の私が圧倒され驚いたのは「目立とう精神ナンバーワン」というコーナー。 文字通り、会場内で1番目立ったリスナーさんが選ばれます。この、地元のリスナーさん達の一体感がもの凄い!これは番組がこれまでに築いてきた底力なのだろう…と思いました。   ―2019年7月25日、(金曜)―

  草尾 毅さんと林原めぐみさんが2ショットで!えびの高原ホテルの公録会場で、

「ラジオは友だち!」   (34)   「レコード確保……局に無ければ借りる」      レコードがなければ借りればいい…との発想基本でした。放送局だからどんなレコードもある、というのはまちがいです。とくに子供むきのはないのがあります。レコード店にもすでにない場合があります。時に「アニメのナツメロ」の週もあります。レコードになってないソノシート時代に流行った歌もリクエストがきます。MRTのレコード室には無い歌がきた時、そのハガキは「無視して」しまうか?なんとかして探すか?私は後者です。番組で呼びかけます。「ソノシートです。レコード室にはないので、もっている人がいたら貸して下さい。」すると、「なんせ昔のことなので聴けるかどうか…」というハガキがきます。その人のところへ借りにいきます。そのままではレコードがかかりにくいので、33回転のレコード盤をおき、その上で重ねると聴けるのです。子供の歌の場合それがたまにあります。中古レコードの専門店にもよくいきました。アニメのドラマ編はよく借りました。レコード室にはないけれど専門店にはあるのです。それかでもない時には、リスナーにお願いします。赤江の長友くんはその「常連」で「その歌ならありますよ」と貸してくれました。部屋にいくと昔のオモチャなどがたくさんありました。彼は体がよわいみたいでいつもその部屋にいました。彼から「アニメのナツメロ」をよく借りました。 アニメの歌はTVでかかっても1番だけです。いちど3番まで聞いてみたい、その歌が好きならそう思います。アニメランドなら完奏しました。

 「えびの高原アニメジャンボリーを体験して、 高知市 峰友真理  1990年8月」、 宮崎県えびの高原…夏は涼しいはずのあの山あいで、全くあの2日間ほど「なんて熱い時間を過ごしたのだろう!」という思いを感じた事は、それまでも、そしてその後もありませんでした。今も手元に残っている、記念のスナップや集合写真…。ゲストさんやホスト役の樫元&伊藤アナウンサーと、緊張と期待に満ちた笑顔の参加者達の写真です。 あれから悠に25年近くを経たにも関わらず、1つ1つを思い出してはあの楽しくてあまりにも幸せを感じた時間が瞬時によみがえり、しばらくその記憶に支配されてしまうから不思議です。当時、私は「鎧伝サムライトルーパー」とアニメでブレイクしていた草尾 毅さんのファンで、全国に散らばる同じ思いの友人達と一緒に各地のイベントやコンサートなどに足を運んでいました。 そんな中、仲間内から「どうやら宮崎で合宿形式のイベントがあるらしい」という情報が流れてきました。チャンスを逃す訳には参りません。    -2019年7月25日、(木曜) —

 えびの高原で草尾 毅さん、林原めぐみさんと皆で記念写真、

「ラジオは友だち!」   (33)   「田中真弓さん……女の子役やりたい」      アニメは広大なマーケット、東京のコミケ(マンガ同人誌の即売市)は二十万人を動員する現状だと聞きました。地方都市でもマンガ制作思向の若い人は多く、このためアニメランドは専用電話「コミケ情報テレフォンサービス」を持っており、常時県内のコミケ開催に関する情報を流しています。これは特にマニアに好評です。現代の子供達はTV画面に向かって、まず「アニメ」から見はじめます。となればアニメというのは特殊な分野ではなく広く子供の世界の共通文化である、ともいえます。広大なマーケットとして存在するのです。 番組作りは「商店」に似ています。制作者は大番頭。お客さんが何を好むかを察知して、いち早く品ぞろえするという日々努力があれば、その店は繁盛します。ただ、商店の客は見えないので気づきません。ハガキやリクエストはお客の貴重な意思表示だと思って大切にしたいものです。 先月7日、「アニメランド」が「全国にも類のない青少年向けの優れた娯楽番組」として評価され社長表彰を受けました。今後もリスナーに喜ばれる番組を作っていきたいと思います。 (1990年12月 月刊民放 制作ノートから  宮崎放送「アニメランド」 ラジオでアニメ番組に挑戦! 

 「アニメランド」の終了後アニメ雑誌を見ていたら「アニメランド」のことが載っていたと、小耳に挟みました。宮崎のロ―カル局ながらアニメをラジオで紹介し、全国的に話題になったと、かなり詳しく紹介していたそうです。番組担当者としての思い出を、もう少し書いてみたいと思います。 宮崎市のサンリブ宮崎で朝開店時前にシャッターが開くと、お客さんのドドドという足音が四階まで伝わってきます。公録を見に来るのです。キャプテン翼の山田栄子さんやタッチの日高のり子さん、寿屋でも「うる星やつら」の平野 文さんなどファンは開店まえから待っているのです。西都市では「今日はファンは少ないだろう。」と油断して、田中真弓さんと西都原古墳を見に行って帰ってきたら大勢のファンが待っていたこともありました。田中さんとマネージャーは上機嫌でした。飛行機のチケットに二人の年令を27歳と28歳と私が書いて東京に送ったのです。私は女性の歳はきけません。それが良かったらしいのです。 田中さんは「天空の城ラピュタ」のパズー、ドラゴンボールのクリリン役をしていました。かならず男の子の役で「可愛い女の子をやってみたい!」と言っていました。現在はONE PIECEのルフィー役で忙しいでしょう。   —2019年7月24日、(水曜) —

 アニメ歌手小幡洋子さんとお正月にサンリブ宮崎で公録!遠藤玲子アナ、

「ラジオは友だち!」  (32)  「番組への参加……リスナーを主人公に」               私は建築家になってあれこれプラン練ります。その結果、声優とファンが即興的にコントで共演する「アテレコに挑戦コーナー」や「アニメクイズ」「言ってほしいセリフ」なとが誕生しました。 これらに採用されるとアニメ台本やポスター、握手券、記念写真撮影券などがもらえ「一生の記念」になる興奮を味わえるのです。私が気を配るのは、なるべく多くの観客を番組中に参加させる、ということです。主人公は番組を支えているリスナーでありますから、この基本的な考え方に立って構成しております。ゲストの決定はハガキの「人気投票」によって決めます。これまで来宮したのは、神谷 明、古川登志夫、草尾 毅、中村大樹、佐々木望、西村知博、矢尾一樹、山寺宏一、平野 文、田中真弓、山田栄子、伊倉一恵、松井菜桜子、原えりこ、林原めぐみ、の皆さんなどアニメ界の人気スターばかり。ファンにしてみればギャラに関係なく人気声優の名を書いてくるので、その出演交渉をする私は大変です。青二プロダクションの田中部長にはいつも無理を頼んでばかりで、感謝しています。キングレコードの林さん、サムライトルーパーのオールメンバーを宮崎に派遣して下さって、足を向けて寝られません。夏八月の「えびの高原アニメジャンボリー」(一泊二日の有料イベント)の際はゲストが草尾、林原という人気声優だったこともあり、告知後すぐ満員になりました。半数が県外からの応募でした。今、第二次声優ブ―ムといわれ、憧れる若い人が多いので公開録音は毎回大にぎわいします。 公録に参加した人には「参加証明書」というカードを全員にあげています。

これは「自分はあの有名な声優をこの目で見たんだぞ!」と友人に自慢する時に効果を発揮します。バスや電車や自転車で熱心に来てくれるファンに、番組からのささやかな「お返し」です。今や番組のファンは九州各県はもとより四国、兵庫、京都、石川、横浜などにも広がり、遠距離からMRTの電波をとらえて熱心に聴いているのが読みとれます。岡山の男の子からは「アンテナを1時間手に持って(そうすると感度が上がるらしい)聴いています!」というたよりがあって感動しました。「雷が鳴ったから再放送」というのがあります。熱心なリスナーはたいてい番組をラジカセで録音しながら聴いています。ところが夏場は夜間によく雷が鳴るのです。同録中にガーガージージと雷の雑音が混入して「もう許せない!」と立腹の結果、局に「雷が鳴ってうまく録れなかったから再放送おねがい!」との嘆願ハガキがかなり届きます。これにすぐ 応えてやれるのがローカル局ラジオの面白さです。        —2019年7月23日、(火曜) —

 これが参加証明書です。色わけしてゲストの名前と日付けを入れた。

「ラジオは友だち!」   (31)   「チャレンジ精神……リスナー助け借りる」       「チャレンジ精神」は私が番組を作る時のバックボーンになりました。未知の分野のアニメに対して「めんどうくさい・むずかしいから・知らないから…」と逃げるのではなく、よい機会だととらえて開拓してみよう!と勇気を奮い立たせました。私は自分の才能を当てしてないのです。すぐ番組のリスナーに助けを求めました。アニメ特集をやってほしい、というハガキが届きました。しかし私はアニメについて知りません。「詳しい人はスタッフになって知恵を貸して下さい!」と。すると、「スタッフになりたい!」というハガキが20枚ほど届きました。その人達にMRTに来てもらい、相談しながら練り上げたのがアンケート方式によるアニメ特集で、人気声優ベストテン、好きなキャラクター・ベストテン、好きなアニメソング・ベストテン、話題のアニメ作品、印象に残っているセリフ…などで構成する内容でした。この特集を放送したところ大評判で数週間後にパートⅡも作りました。 この「ベスト20」の担当は昭和59年10月、後進に道を譲る、との観点から若いアナウンサーに交代しました。

しかし私は若い人達とせっかく持ち続けた接点をすべて失うのは残念でした。「ベスト20」とは競合しない分野で、なにか音楽番組をできないかなあ……と考え「アニメ音楽だけ」の番組づくりをすることに思い至りました。名称はアニメーションと、当時から子供(大人も)に人気だった東京ディズニーランドの語尾をくっつけて「アニメランド」としました。企画書を茂田制作部長に堤出すると「…これはテレビでやるの?」と言われました。たしかに「アニメは映像で存在するもの」という先入観があります。しかしこの映像に生命を与えるのは声優によるセリフであり音楽であります。音響の比重は画と同等である、という事実に目を向ければラジオのフィールドであります。映画音楽と同じように映像の世界を伴っなっているだけにインパクトは強列です。私もはじめはアニメソングといえば「宇宙戦艦ヤマト」と「キャッツ・アイ」ぐらいしか知らなかったので、30番組で充分だろうマイナー番組覚悟でスタートしたのですが、その後、反響が週を追って高くなり四月改編で一時間になり今日に至っています。アシスタント初代は中武真美さん、二代目からは局アナで遠藤玲子、俵谷美津子、伊藤佳子アナとひき継がれています。さて「公開録音」の一時間の枠内で何をすれば聴取者は満足するのだろうか?その答えを引き出すために、「ゲスト声優に何をしてほしいか」をハガキで募りました。すると、サインをしてほしい! あの名セリフを生でききたい! 一緒に写真をとりたい、 握手をしてほしい、声優さんとアニメ台本で一緒にアフレコできたら夢みたい!…など、   ―2019年7月22日、(月曜) ―

 松井菜桜子さん、宮交シティの紫陽花ホールでした。ハイスクール奇面組の千絵ちゃん役でブレイク!

「ラジオは友だち!」   (30)  「心構え……常にチャレンジ精神」    日本民間放送連盟が出版している「月刊民放」1990年12月号で「アニメランド」の事が載りました。 宮崎放送「アニメランド」はラジオで60分番組です。リクエストハガキによってアニメの主題歌をかけます。時にはス―パーや百貨店が提供主で、そこの催場で「公開録音」を行います。昭和59年(1984年)10月にスタートして以来、今年で六年目、放送回数は三百回を超えました。公開録音は合計30回、ゲスト声優を東京から呼び「アニメクイズ」や「アテレコ挑戦」などのコーナーはファンも参加してにぎわいます。参加者は五百人から時には千人を超える時もあり、ローカルラジオ局のイベントとしては営業的にも好調です。 「アニメランド」を制作するにあたって、バックグラウンドになったのが「MRT歌謡曲ベスト20」です。私が担当していた頃の同番組は週に1000枚くらいのリクエストハガキが届いていました。自分で目を通していました。ハガキにはもちろんリクエスト曲が書かれてありますが、それ以外に、感想とか不満とか……いろいろなコトが書かれてあります。そのいわば「つぶやき」を読みとって、番組作りの重要な参考にしていました。毎週1000枚のハガキ全部に目を通すのは大変ですが、それをしないと私の年齢では歌の世界の潮流を読むことができないのです。 「めんどうな作業はアルバイトにまかせてたら…」と言われたこともありました。が、私にとっては大事なプロセスでした。 さて、そのハガキの中に「アニメ特集をして下さい」という一枚を見つけました。

当時「オフコース特集」や「サザンオールスターズ特集」などを時に組み好評を得ていましたが、ベストテン番組といえどもチャートを毎週紹介ばかりしていると聴取者も飽きるものです。数週間後にまた「アニメ特集をして!」というハガキがありました。別人です。リクエストハガキを子供が自分のお金で買って投函する、という行為はたいへんなコトなのです。わずかな自分の小遣いの中から出費するのです。そこに書かれていることは、ほとんど「本音」です。これはきっとなにがしかの需要があるに違いない、とにらみました。しかし「歌手」の特集は組ましたが、「アニメ特集」とは…一体、何をどうすればいいのでしょうか? ところで、「MRT歌謡曲ベスト20」は当時TBSの「ザ・ベストテン」と連携し、チャート資料を送ったり中継をしたりしており、宮崎でも人気番組でした。上京してザ・ベストテンのスタッフと談話する機会がよくありました。演出の弟子丸千一郎さんや山田修二さんから学んだことは「チャレンジ精神」でした。お金も人材も舞台装置もすべてそろえられる東京で番組を作り、それが他より抜きん出るためにザ・ベストテンがとった方法とは、安易につかず困難にトライするという「チャレンジ精神」でした。    —2019年7月21日、(日曜) —

 都城大丸で平野 文さん、うる星やつらのラムちゃん。私も一緒に踊らされて!まいった。

「ラジオは友だち!」  (29)  「まつり宮崎……アニメランド生中継」    「えびの高原アニメジャンボリー」の公録が終り、その場で写真撮影会。皆が撮れるようにワンポース10秒間で3ポ―ス撮りました。そして質問コーナーがありました。熱狂した翌日は野外音楽堂でサイン会、ファンにとつてたまらないお泊まりのツアーでした。興奮のあまり発熱して、看護婦はいないかとのさわぎになり、さいわいゲストの林原さんが看護婦の資格をもっていたので、急遽容体を診てもらうパブニングもありました。翌年は日高のり子さんと魔動王グランゾートのラビ役の安達 忍さんをゲストに呼びにぎわいました。日高さんの事務所の方から「どうしてあんなにファンを動かせるのか?その理由をきかせてほしい。」と聞かれました。「ラジオ放送のイベントであり週一の番組でPRできるから…」と答えました。そしてファン第一で番組をつくっているからと言ました。 アニメをラジオ番組にと、これまできいたこともない話しに取りくむとき、以前にアニメ番組がらみで苦情をうけたテレビ編成部員から「アニメファンはしつこいからね~」との声がありました。ファンは敵か見方か?私は自分の子供が夢中になってアニメを見ているのをみて、よし自分はアニメファンの味方だぞ、と決めた。

「魔女っ子特集」のリクエストハガキを持ってレコード室にいたら、「あら樫元さん、知らない人がみたらちょっとヘンな人ね、と思われるかも」とレコード室の女の子が笑いました。鉛筆でかいた子供の絵のかいたハガキばかりを持っていたからです。 こどもは字と絵が仲良しです。 「まつり宮崎」でアニメランド公録を始めて生中継をしました。なにしろ宮崎放送の主催する催しですから。ゲストは神谷 明さんと伊倉一恵さんのコンビでした。木曜日の夜7時30分から8時30分まで会場から生中継です。シティハンターの冴羽 獠と槇村 香がやってくるとあって会場は大にぎわい。神谷さんはキン肉マンや北斗の拳のケンシロウ、うる星やつらの面堂終太郎の声でも有名でした。カッコいい男からコミカルなキャラまでなんでもござれです。 えびの高原アニメジャンボリーのゲストが神谷 明さんと吉田古奈美さんの時の担当は梅垣博子アナウンサー、次の担当は黒部亜希子アナウンサーは大阪出身。まつり宮崎のときは場内アナをしました。TVOテレビ大阪に転勤することになりアニメランドを卒業するに当たり「感謝状」をファンの皆さんに贈りました。 あなたはアニメランドをいつも応援して下さってありがとう!アンケートのご協力はとてもうれしかったです。番組を交代するにたってあなたに記念の感謝状をさし上げます。 平成11年2月吉日、アニメランド 黒部亜希子   最後に自筆でサインを入れました。こんな細かいことができるのがラジオです。        -2019年7月20日(土曜)―

「ラジオは友だち!」  (28)      「アニメジャンボリー……声優メイン野外公録」   1994年に発行された「MRT開局40周年記念誌」には次のように書いてあります。アニメの歌だけで構成する「アニメランド」は、スタート以来MRTラジオのユニークな番組としてリスナーや業界から注目されました。普段はロボットアニメ特集や魔女っ子アニメ特集をかけていますが、スぺシャル番組の公開録音では、東京で活躍する有名声優を宮崎に呼びます。大勢のファンを前にして、おなじみの極め付けのセリフやコントを演じてもらい、観客とステージの一体感を演出して共感と興奮を呼び起こしたり、劇場用人気アニメの場面の音声や効果音を紹介するなど、アニメにタ―ゲットを絞った専門番組として、大胆な企画とユニークな構成でたちまち人気番組に育ったのです。MRTの営業とえびの高原ホテルが観光バスを活用し、「夏休みに子供たちと高原で遊ぼう」という企画を打ちました。この「びっくりアドべンチャー」に、アニメランドで子供たちに人気の声優を呼んだらという話があり、「プロジェクトA子」などの伊藤美紀さんを呼びました。内容は高原で子供たちと一諸に昆虫をとったりして遊ぼう!というもので声優に歌を唄わせようというものではなかった。いわゆる営業企画です。反応はいまいちで、子供たちに合う企画ではないな、と感じました。反省会があり、つぎからは君も企画にはいってくれ、といわれました。

そこで声優をメインにした「アニメジャンボリー」が生まれたのです。バスツアーと銘打って「超獣機神ダンクーガー」藤原 忍役の矢尾一樹さん、「機動戦士ガンダムZZ」 エルピー・プル役の本多知恵子さんによる、公開録音を行いました。そしてブレイクしたのが90年の、草尾 毅と林原めぐみという人気声優がゲストだった夏でした。告知後すぐ満員になりました。しかも半数は県外からの応募者で、バス8台を連ねて行く盛況でした。思いがけず大きくなった番組の成果を素直に喜びました。番組のバックボーンは「チャレンジ精神」でした。「易きを取らず困難に向かう」をモットーに、常々リスナーの気持ちを尊重して制作しました。実行にはかなりの努力が必要でした。 草尾 毅さんと林原めぐみさんはバスを連ねて「えびの高原」へ行く公録は珍しかったのか参加者と一緒になってはしゃいでいた。どちらも人気者でした。宮崎交通ではまるで修学旅行にでもいくような雰囲気でした。えびの高原は夏でも涼しく高原と温泉そして公録があり、しかも「鎧伝サムライトルーパー」烈火のリョウ役・草尾さんや「らんま1/2」の女らんま役の林原さんが一緒という、スペシャルな夜でした。     ―2019年(令和元年) 7月19日 (金曜) ―

 えびの高原ホテルで矢尾一樹さんと本多知恵子さん、アニメジャンボリー

「ラジオは友だち!」   (27)       「公開録音……ゲスト連れ南郷町へ」    マルショクや宮交シティ・アポロの泉、寿屋、こどものくに、まつり宮崎、シーガィア、西都市のコミュテイプラザ・パオ、延岡の旭サービスなど、公開録音には声優さんを招きました。なにしろ春の〇〇まつり、ゴールデンウィーク、夏の「えびの高原アニメジャンボリー」 秋の〇〇まつりなどに、1年間に公録ステージが6回あります。毎回、ゲスト声優がくるので、10年間に60人の声優さんが来たのです。 都城大丸デパートの屋上の公録では「うる星やっら、アニメ三銃士」の平野 文さん。2回目の冨永みーなさん、銀河漂流バイファムのクレア、機動警察パトレイバーの泉 野明役などで大人気。まっ白いドレスできれいでした。お相手は遠藤玲子アナウンサー。公録がおわるとサインをせがまれてこまっていました。夏に宮交シティ・紫陽花ホールで、「ハイスクール奇面組!」松井菜桜子さん、「ときめきトゥナィト」の原えり子さんを招いての公録がありました。」 仲よしの二人は、宮崎に来るのを楽しみにしていました。そして空き時間に宮崎の海で海水浴を、との希望でした。そして空き時間に青島海水浴場は平凡なので南郷町の小島をえらんだ。絶景のところだった。私の友人の千穂さんも同行して海水浴をしました。ビーチがきれいで海がすきとおってみえた。目の前に小さい島がみえ珊瑚も。移動には車でかなり遠かったが日曜日の海水浴を楽しんだ。二人は自分たちのことをチリリンと愛称づけました。また呼んでくださいと言いハイスクール奇面組が人気があったのでえびの高原にもゲストで来てもらいました。自分たちでサイン会も開きなかなか積極的な二人だった。

公開録音には「アニメランド公録の参加証明カード」が配られました。裏に1番から500番までうってありました。市内で来場ファンが多い時には、1000番まで打ったこともありました。ゲストの声優と会場名が書いてありました。公録を10年間に60回公録したので60回発行しました。戎井聖貴君は今でも大事にもっていた。こどものくにで宮里久美ちゃんの時に行った記念だといって「子供の宝箱」から証明書を見せてくれました。1985年8月18日、今は宮日のカメラマンで活躍している。会場で何にも当たらなかった人の寂しさを考えてやろう、せめて参加証明カードだけてもあげよう!会場も行けずラジオで涙できいた人には「涙の不参加証明カード」も発行した。ハガキで申し込むと送ってきた。 自転車で来る人が多い、朝はやく会場につき前の席をとるには結構たいへんだ、そして会場で目立つためにはアニメのイラストにうったえるのが1番!そして今回のゲストの紹介となるが、拍手で迎えるのはゲストの紹介ではない。公開録音を実際に立ちあうとお判りになると思うが、拍手で迎えるのは会場のファンである。「どこから来たの?何時ごろから?」とインタビューをする。アニメのイラストを描いたボードを手に応援合戦が繰り広げられました。    ―2019年7月18日 (木曜) ―

 都城大丸屋上で観客はいっぱいでした。冨永み~なさん、綺麗でした。

「ラジオは友だち!」   (26)     「アニメランド……「サントラ盤」も紹介」     それまで私が担当していた「歌謡曲ベスト20」でアニメ音楽特集をやったことがあり、反響がありました。 その路線の延長でいくことにした。ベスト20のアニメ特集での要望は、①声優の心にのこるセリフをもう一度ききたい、②サントラ盤紹介をしてほしい、③人気声優を呼んでほしい、そして一緒にセリフを言いたい、というものでした。①②をかなえるため、「超時空要塞マクロス」はセリフ入りバージヨンを紹介しました。これはドラマ編からとして15分くらいかかりましたが、最後まで紹介した。③はギャラの問題もあって実現困難であるが…やってみようとおもいました。中高生たちの瞳の輝きを見ると「それは無理ですよ、」と簡単に言えなかった。 リクエストを募るためプレゼントは当時アニメのポスターをおいている田中書店から図書券をもらいそれを使った。初回の放送はアッというまに30分が終わった。アニメソングだけかける番組ではなく今話題となっているサントラ盤まで紹介してしまう凝りよう。 1時間に枠大したのは1985年の春です。そして公開録音の話が営業からあり、デパートの客集めにつかうためには30分では短かかったのです。 大人気声優の冨永みーなさんが来たいといっているがどうか?第一回の公録として決定しました。声優だけでやれるか?とにかくやってみよう!

普通公録といえば歌手をよぶが歌は唄えるのか?魔法の妖精ぺルシャの主題歌「見知らぬ国のトリッパー」は岡本舞子さんでした。エンディング曲は「大好きシンバ」は冨永さんの歌だ、それをつかおう。そしてサントラ盤紹介は「風の谷のナウシカ」。ペジテ市の姫君ラステルが「積荷を、積荷をもやして…」と言ったまま息絶えてしまった…という部分を生できこう! 宣伝もしなかったが会場のサンリブ宮崎にはビックリするほど人が集まっていた。小学生~高校生それに若いお母さんまで、これは大きな反響がある!と実感しました。冨永みーなさんが出場すると会場が沸いた。かわいい声でぺルシァやエクソシストで「殺してやる~」と恐ろしい声を出したり自由自在!声優を呼べば「アテレコに挑戦!」ができる!1回くらいはプロの声優とアテレコをやってみたい、というファンの夢です。以来サンリブ宮崎は長くスポンサーついてくれました。近くのボンベルタ橘の人たちは早くから長い行列ができる公録をみてたまげていた。午前10時の開店を早めてもらうと階段をかけのぼる足音が聞こえてきました。当時はアニメファンはとかくネクラで…と、いうイメージがありがちだが、明るい人ばかりでした。ただし自分の節はまげない。   —2019年7月17日 (水曜) —

 初代のお相手は中武真美ちゃん!いい声でした。はじめアニメランドは30分番組だったのです。

「ラジオは友だち!」   (25)    「アニメランド……冒険と夢に遊ぶ番組」     「アニメランド」は、1984 (昭和59) 年に放送が始まりました。県内外のアニメファンを熱狂させた、「ラジオイベント」です。なかでも夏の公開録音「えびの高原アニメジャンボリー」は東京から人気声優をゲストに招き、えびの高原ホテルで開き、神谷 明、山口勝平、林原めぐみ、日髙のり子さんなどが次々に来県、貸切バス数台で一泊のイベントを開くというユニークな企画でありにぎわいました。アナウンサーは樫元、遠藤、俵屋、伊藤、梅垣、前田、富樫、黒部アナなどが担当、最終回はアニメ作家の芦田豊雄さんやMBC采野アナ、OBSの平野アナも参加しました。アニメランドは96年5月の744回まで続き、この間公開録音は、まつり宮崎、宮交シティ、こどものくに、サンリブ宮崎、旭サービスなど62回を数えました。 この「アニメランド」にはいくつか特色がありました。面白いものがあるとアニメランドのコーナーですぐやれる。そのひとつに「リスナーカード」というのがありました。ファンはスタジオから送って来るものはなんでも喜んでくれました。アニメランドのスタジオ写真も1枚の写真だが喜ばれました。いつもラジオで声は聞いてるが、どんな顔の人がしゃべっているんだろう」という思いに応えたものです。「自宅のラジオを写真にとって送ると」、愛用のラジカセの写真が集まりました。投稿者には「こんにちは!MRTアニメランドを熱心に聴いてくれてありがとう。いつもあなたが聴いている愛用のラジオと雰囲気がよくわかりました。お礼に、アニメランドのスタジオ写真をリスナーカードとしてさし上げます。MRTアニメランド 樫元 洋、中武真美」 30分番組としてスタートしたが、営業からの要望で一時間になりました。

公開録音をするとき一時間のほうが番組を売りやすいというわけです。1時間に枠を枠大した時には、オープニングのテーマ・ミュージック(TM) は「重戦機エルガイム」から作中で流れた「進撃エルガイム」にしました。カッコよかった。小中学生に与える音楽は元気なのがいい 。私の長女は当時小学校6年で、それまで担当していた「MRT歌謡曲ベスト20」をきけとはまだ云えず、童謡の次としてアニメがありました。二つ年下の弟は「グレートマジンガー」のテーマ音楽がかかると夢中で見ていた。冒険と夢のある世界の歌、宇宙を飛び~魔女っ子のように変身するものそれはアニメソングでした。アニメの歌ばっかりかける番組はないか?なければ作ってやろうと、アニメランドができました。アニメをラジオ番組でやろう。東京のデズニーランドはそう簡単には行けないので「アニメランド」で遊ぼう!    ―2019年7月15日(月) —

アニメランドのアナたち、10年もやりますとお相手もいろいろ!富樫アナは1年間でした。よい後継ぎが出来たと喜こんでいたのに!ふるさと横浜に帰った。

「ラジオは友だち!」   (24)     「トシちゃん……飛行機の中で誕生日」    樫元  えびの市のルミさんから。映画撮影で難しかったのはどの辺でしょうか。  田原  ドイツ語をちょっと使ったのがきつかったのと、毎日忙しかった。でもそれなりに楽しかったですね。   樫元   えびの市の直美さんから「ウィーン物語」は二役を平成演じたんですけどどうでしたか?  田原   はじめての二役は貴重な体験だったけど、いい勉強になりました。  樫元   セリフも微妙にかえてましたね、  田原   うん、ばりばりトシちゃんと男らしく決めて‥  樫元   映画のうら話があったら教えてください、高鍋町の喜美子さんからです。  田原   ヨッちゃんがね、NGを出して困りますね!(笑)  樫元アナ  映画で一番印象深い場所はどこですか?川南町の久恵さんからです。  田原   クロイゼンシュタインかな、すごい古いお城があるんですよ、1300年ぐらい昔の、ドラキュラの映画をとったりして有名な城で、夜ひとりでいると怖いですね。

樫元   宝塚のコンサート大成功でしたね!どんな感じでしたか!西都市の久美子さん17歳から。    田原  声は出るんですけと体力がね~ちょっとしんどかったです。鍛えさなければね~と思いました。あと演出的なものでやっぱり宝塚独自のものがたくさんあって、見てる人は面白かったと思います。  樫元   2月28日、22歳のバースディーを海外で迎えましたが、どんな感じでしたか。  田原   飛行機のなかでした。それで外人さんにハッピーバースデイと言われてね、太平洋の真ん中ぐらいで。(笑)  樫元  それから宮崎市の佳子さん、春からの新番組で織田信長の役をやるそうですが時代劇をやってみた感想はいかがでしょうか。  田原   そうですね~すごく時代劇はやりたかったのですが、かつらをかぶるのがちょっと…でもナンバー1の男だしネ、ボクと違う面で、さばさばとやろうと思っています。   樫元   宮崎弁に挑戦してほしい!  田原   たまらん~ しんきなあ~ よだきい、  樫元   上手です! 最後に延岡市の香里さんから宮崎のファンへひとこと、なにかメッセージをください。ファンを代表してお願いします。   田原   やっぱり昨年きたとき盛り上がりましたので、たくさんのファンの声援が本当にありがたい!   樫元   ここに皆の葉書があります、ハガキにぜひさわってください!これからも歌に踊りにドラマに頑張ってください。  年月がたってファンも変化したが、その頃の若いトシちゃんの声をきくと、自分も若くなります。明星や平凡のグラビアを飾ったトシちゃんは永遠です。ジャニーズファンの恵美子さんから先日久しぶりに電話がありました。あの頃、トシちゃんやマッチが宮崎に来た時のインタビューの思い出を語りました。あれから何年たったことだろう。         ―2019年7月14日 (日曜)―

「ラジオは友だち!」  (23)         「トシちゃん……どのステージも全力」     樫元  都城の志保子さんから、霧島や高千穂の峰を最初に見た時の気持ちはどうでしたか?、という質問ですが…今日は天気が悪くて見えませんでしたねぇ(笑)   田原 どこにあるか教えてよ、今度。 樫元  都城の印象は。  田原  そうですね、来る途中までは全然家がなくて「田んぼばっかりだなあ、皆来てくれるのかなあ」と思ったんですけど、会場の近くになるとすっごい人で、よし、やるぞと思いました!  樫元  宮崎市の純子さんから。コンサートの時に心掛けていることは何ですか。  田原   ぼくは年に何十回とステージに立っているけれど、ほくと会う方は年に一回か二回だけです。どのステージでもぼくの持ってるすべてを出せば、納得してもらえると思います。  

樫元   トシちゃん、ラスベガスはどうでしたか?ラジオではご飯がまずかったなんて言ってましたが。  田原  (笑) ラスベガスは本当に不思議なところで、砂漠の真ん中にギャンブルの町があって、ボクは1万2500ドルぐらいしかかけなかったのですが、マネジャーの板野くんが結構スリましてね、もうあと一歩で「ラスベガスで皿洗い」を…(笑)  樫元   やばい、という顔でそばで見てますが…どんなマシーンで遊んだんですか!  田原   ボクはね、スロットマシーンとあとポーカーです。      樫元   都城の靖子さんから、 米国で学んだことについて印象にのこったことは?  田原  今回2回目のニューヨークなんですが、13個のレッスンを受けて、それぞれの違う先生のパターンがあるなぁ、と感じました。  樫元   高岡町の利恵さんから、ニューヨークはどんな町でしたか?教えてください。  田原   やっぱり高層ビルがいっぱいあってね、ボクの泊まったホテルは50階だてのホテルで窓が開いちゃうんです。ふつう開かないんでしょ、そこで紙飛行機を飛ばして遊びました。これが飛ぶんですよ、10分ぐらい飛ぶんです。下に着くまでに‥それで毎朝遊んでいました。ビルの間に上昇気流があるんですよ、  樫元  さすがニューヨークですね。それから延岡少年少女合唱団の定期演奏でなんとドナウ河のさざなみを唄ったので、また映画を思い出しました。延岡市の千代子さん13歳ですが、トシちゃんとマッチのとび込んだ川がそんなに美しいのかなぁ、と思うのですが、トシちゃんどんな川か教えてください。  田原  いやいや、イメージダウンですよ、(笑う)、遠くから見るときれいなんですが、もぐってみると前が全然見えない、水深が1メートルぐらい、真っ暗ですよ!  樫元  でも飛び込んだでしょう!  田原   飛び込みました!怖かったです。         ―2019年7月13日 (土) ―

「ラジオは友だち!」  (22)    「トシちゃん……都城でインタビュー(上)     叙情派フォークのNSPのインタビューに行くと 「ボクらは岩手県出身なんです。どうかよろしく!」 とニコニコしていました。「八十八夜」 「見上げれば雲か」 などヒットがあります。フォーク歌手が活躍する場はラジオでした。 個人的には永井龍雲さんが好きで 「想い」 「つまさき坂」 は何度聞いても良い。伊勢正三さんに会いに宮崎市民会館にいくと菜食主義の彼らしくちいさいコンロでなにか煮ていました。そして笑いながらインタビューに答えてくれた。コンサートは彼らしくギターをつま弾いて大久保一久さんと二人で唄いました。「かぐや姫」や「風」のメンバーで、どこかへいくような唄だった。「なごり雪」「22才の別れ」「ささやかなこの人生」、どれもいい歌です。JR日豊線の津久見駅に伊勢さんの「なごり雪」の歌詞の記念碑がある。津久見は彼の故郷だ。若かりし頃、津久見駅で恋人と別れのせつない心情の唄だ。歌詞は東京とあるが恋人との別れは東京でも津久見でもかわらない。 庄野真代さんは宮崎駅でインタービューしました。市民会館でコンサートがあり、リハーサルの前に宮崎駅長室でインタービューしました。「モンテカルロで乾杯」がヒット。 ゴタイゴが宮崎に来ました。市民会館に大勢のファンを背景にインタビューしました。銀河鉄道999やガンダーラ、ビュティフルー・ネイムの代表曲があります。

ジャニーズのマッチ(近藤真彦さん)やトシちゃん(田原俊彦さん) には「命がけ」のインタビューです。なにしろリハーサルが直前まである。そしてインタビュー、顔は笑顔だが…はく息がきつそうだった…。  トシちゃんがコンサートで都城市民会館に来た。1983年のこと、22歳でした。すぐインタービューに行った。トシちゃんに会ったらこのハガキを渡して!とファンからのことずてがあり、マッチ、ヨッちゃん(野村義男さん)との3人グループ「たのきんトリオ」主演の映画「ウィーン物語ジェミニ・YとS」の海外ロケなど、聞きたいことがたくさんありました。 インタビューの様子を紹介します。   樫元  さっそく皆さんからのハガキです。 トシちゃんへ、夏につづいて今年も春に宮崎に来てくれて本当にありがとう!と高鍋町の宮城志保さんからです。   田原   無事にまた宮崎にこうして来ることができました。今回は都城ですが、いつ来ても皆一生懸命応援してくれてうれしいです。   樫元    昨年は8月で宮崎の印象は?という答えに「南の島みたい!」との答えだったんですが‥3月の印象はどうですか?   田原   着いたときちょっと雨がふってたんで、あっ、さびしいなぁ、って感じだったんですが、パイナップルのお化けみたいな木がいっぱいあって、アッ思い出した、と思いました。   —2019年7月12日 (金曜日)―

「ラジオは友だち!」   21    「関白宣言……発売前に宮崎で披露」      私は常々、リクエスト番組で「今週は〇〇〇枚お葉書がきました。ありがとうございます。」 というのを言わないのはおかしいなと思っていた。番組の根拠となる葉書の枚数をいわないのはおかしい話であると、しかし当事者になってはじめてわかった。いえないのだ。純粋なリクエスト総数は言えないのだ。一人でハガキをたくさん買ってだせば意中の曲が動くのです。現に「歌謡曲ベスト20」でもそんなことがあった。しかしそれはすぐバレる。ベスト20ではプレゼントがあるからプレゼントを書いてくる。 しかし組織票はそれがない。はがき総数だけ伝え、歌手別の数は言いませんでした。 いつもハガキのチャートを出すだけでは毎回似たような曲ばっかりかかる。そこで「OLがすきな歌」からかけようと考えました。オリコンという週刊誌には200曲がのっていた。それを順位が分からないようにしてバラバラにして並べます。そしてハガキでリクエストした人のなかからOLらしい人を抽出し、50人に放送局からダイレクトメールを出した。「あなたのすきな20曲を書いてください。」と、投票を頼んだ。すると、はがき総数の順位ではマッチや俊彦などジャニーズ系の常連が占めますが、ちがう曲が上位にきました。やはり歌の内容が20代の女の人にふさわしい歌で構成されました。一ヶ月に1回放送しました。 「ザ・ベストテン」の今週のスポットライト、 「ベスト20」でも同じコーナー名で、宮崎にくる歌手にインタビューしました。おもにニューミュージックの歌手で、テレビには出なくてもラジオのインタビューには答えてくれました。宮崎市民会館にデンスケ(携帯用の録音機)を持って行きます。井上陽水には薗田潤子さん、長渕 剛さん、さだまさしさん、オフコース、永井龍雲さんには私が行った。 さだまさしさんが代表曲「関白宣言」をはじめて唄ったのは宮崎市民会館だった。こんな唄ができたんですよ、といってギター片手に唄いはじめた。まだ題名はついてないんですが…彼が結婚する頃だった。 

ちょっと言いすぎたと思ったのか、しばらくして関白失脚というアンサーソングもでた。 サザンオールスターズは、メンバーに宮崎出身の松田さんと大森さんがいるとあってインタビューは楽しかった。「勝手にシンドバット」「いとしのエリー」のヒット中だった。大森くんの家が下北方町にあり赤いトランクスでスタジオに来たりしていた。まだ桑田佳祐さんと原 由子さんが結婚してなかった頃です。おもしろかったのはアルフィです。深夜放送ではおなじみの坂崎幸之助さんのおしゃべりは抜群だった。ベスト20では好きな音楽とともに宮崎にきた歌手の生の声が聞こえると評判になりました。     ―2019年 (令和元年) 7月11日 木曜日―

 

「ラジオは友だち!」   ⑳    「ラジオの鉄則……二人の一方は聞き役」      スタジオにこんなはがきが届きました。「私はトシちゃん(田原俊彦さん) にバレンタイン・チョコをあげたいと思っているのですが、どこに送ればいいのでしょうか!」  う~ん、たしかにそうだ!トシちゃんにあげたい、と思っているファンは多い!早速調査開始!ジャニーズ事務所に電話して「こんな要望があるんですが番組で送ってもいいですか」 と了承をもらい、次の週からPRを開始。「マッチ(近藤真彦さん) やトシちゃんにバレンタイン・チョコを贈りたい人はベスト20にどうぞ」。200個くらいのチョコが届きました。宮日新聞が取材し、写真入りで紙面に載りました。 

番組をはじめる時にアナウンサーはリクエストをくれた人の名前を速く読なければいけないと思いました。番組のテンポを保ち、限られた時間を有効活用するためです。それにはどうすればいいか?宮崎市吉村町の○○さんを言うときに町名はいらない。宮崎市の○○さん、次のはがきも同じ市内なら、名前だけていい。地名がかわった時に都城市の○○さんと続ける。アナ2人態勢の強みで8人ていど読み交互に読めば良い、スラスラと読むのはこれで解決。話題にふれる時はハガキにカラーペンであらかじめ話題の個所を大きく囲んでおく…といい、そしてアナは同時にしゃべらない。かならずひとりの人はきき役にまわっている。ラジオは音だけなので二人が同時にしゃべるとダメ、これが鉄則です。 

延岡市で村下孝蔵さんのコンサートがあり、ラジオ番組「歌謡曲ベスト20」のインタビューのため、公演前に訪ねました。彼はニコニコとして出迎えてくれました。「春雨」「ゆうこ」を唄い「初恋」のヒットが出はじめ、レトロな彼の唄がやっと世の中に認められた頃。当時は孝蔵という名前が珍しかった。地味な彼の、唄声はやさしく、いい声は心にしみわたった。ふるさとの熊本県水俣市には「初恋通り」という通りがある。 夕映えはあんず色… 日本語を綺麗にうたった「歌人」だった。  1976年代 大塚博堂という人がいた。いい声で恋のゆくえを唄った。「ダスティンホフマンにはなれなかったよ」「めぐり逢い紡いで」などいい曲をうたった。労音など各地でうたい愛を唄う吟遊詩人だった。電話インタビューしたことも。37歳のとき亡くなったが…惜しい人だった。 テレビ・ラジオ各社は聴取率調査を行います。宮崎では民放が1局なのであまり意味がなかったので行いませんでした。後にラジオはFM宮崎が誕生したので、社で調査したところ、年齢別の12歳から18歳までの第1位は「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」 だった。うれしかった。   ―2019年 (令和元年) 7月10日 水曜日―

「ラジオは友だち!」   ⑲     「西城秀樹さん……1位記念し話し聞く」     西城秀樹さんのファンは本当によく応援しました。「ブルースカイブルー」 を都城市の高校の学園祭でみんなが踊り、「ザ・ベストテン」でコメントが紹介されました。阿久 悠さんの作詞でとてもいい唄です。~ふり向けばあの時の  目にしみる空の青さ思う  まぶし過ぎた空思い出した~  そして「ヤングマン」 も皆がテレビの前で踊りました!「Y・M・C・A」 とのヒデキの掛け声に合わせ、手ぶりで文字を作って。 エネルギュシュな彼のステージを思い出します。 芝美智子さんや西園ちとせさんは熱烈なヒデキファンで毎週ハガキを寄せてくれました。毎週はがきをくれる人はこちらも名前を憶えます。日曜日には「歌謡曲ベスト20」を聞くためラジオに向かい、たまに野球中継で番組がないとがっかりしていました。ヒデキが恋人だったのです。 ファンの千尋さんから後年もらったお便り。 あらためて昔の動画を見ると、秀樹って歌が上手かったんだなぁ~って、私は五郎派でしたが、あの頃の女の子は新御三家の (郷ひろみ、西城、野口五郎) 誰かの「派」だったんです。後年私は頭の病気で厳しいリハビリが待ってましたが、秀樹はリハビリのお手本でした。頑張ってリハビリして今の姿を見せて本当に秀樹は尊敬しています。

 西城さんの「炎」がザ・ベストテンの上位に入ったとき私もベストテンの地方局アナとして番組に出演しました。1978年6月22日のこと、 「炎」は「ベスト20」で1位になり記念の盾を贈呈。ミニインタビューをしました。   樫元  西城秀樹さんにお話をうかがってみたいと思います。とにかく炎、第1位をつづげております。おめでとうございます!  西城   もう、この盾をいただきましてね、実感がひしひしと伝わります。皆さんありがとうございます!よろこんでますからボクもう、とても‥   樫元    皆さんのハガキの質問に答えてほしいんですが‥  西城  はい、わかりました!  樫元  では、おたよりです。 「私は西城秀樹さんがデヒューしてからのファンです。それによい秘密を持っているのです。それはもちろんヒデキのこと‥それは内緒で‥エへへへ、」  ところで質問があります。ヒデキはこんどいつ宮崎の方に来るのでしょうか?   西城   宮崎へはちょっとわかんないですけどね、ボク行きたいんですよ。とても好きなんです!   樫元  大勢のファンが待ってらっしゃるから‥ 西城  1位になったしボクもぜひ行きたいですね!  樫元   それからもう1枚、「秀樹の好みの女性タレントはどういう人が好きなのですか!」  西城   ウーン、とってもむづかしい質問で‥わりと明るい感じの女性が好きですね、芸能界でいうと竹下景子さんなんていいんじやないかな~   樫元   あんまり言うと女性ファンが嘆きますんで…   西城   はい、皆さん、第1位をつづけましょう!      ―2019年(令和元年) 7月9日 火曜日― 

 

「ラジオは友だち!」  ⑱   「愛のホロスコープ……星占いコーナー人気」     当時ちょっと田舎の下北方にありましたが、それでも見学にくるファンがいっぱいいました。江尻圭子アナ、ローカル局のスターだったのです。その江尻アナが担当した星占いコーナーは人気がありました。週刊誌にはよく星占いのコーナーがあります。女性週刊誌は特にです。干支占い、星座占い、おみくじ… 当たるも八卦、当たらぬ八卦だが、なんとなく気になるもの、これを毎週、番組でやろうとおもいました。しかし毎週原稿を書く人はどこにいるか?大阪や東京にはいても宮崎にはいない。そこで江尻アナと相談です。12の星座のうち半分を書いてほしい。主に恋愛運だ、そしてラッキーカラーを紹介する。半分は私が書くから…おひつじ座からおとめ座までを江尻が、てんびん座からうお座までを樫元が……「はい、いいですよ、」と江尻アナは即答。「私、占いは好きなんです。」 BGMはホーギー・カーマイケルのスターダストに決めました。やわらかいギターがピッタリです。 タイトルは「愛のホロスコープ」。 江尻アナがささやくような甘い声でタイトルコール。…よし決定! ラジオ番組「歌謡曲ベスト20」 のなかで音楽ファンにしばしくつろいでもらおうというのが狙い、これが当たりました。毎週愛のホロスコープをたのしみにしているファンができました。スターダストのメロデイにのせて言うと信じたくなる。江尻アナの声が合っていました。一節です。

~音楽~タイトルコール「愛のホロスコープ」~あなたの今週の運勢、愛のホロスコープです。 まず牡羊座生まれのあなたです。 思わぬカタチでやっかいな問題にまき込まれるおそれがあります。いわれのないことやっかいな妨害にがんとして対応して下さい。好きな人にはいま、あなたの気持ちを素直にうちあけてみましょう…  リクエストはがきの数によるランキングをTBSに送っていましたが、それとは別に「OLが好きな曲」の順位」も出しました。スタジオアナ二人にはこの方が好きな曲が多かった。 ファンの千尋さんからの手紙です。私は ベスト20を トランジスターラジオを持って よく外で聞いていました。1978年頃から81年頃だったかしら…薗田潤子さんが一緒にやっていたころです。 その後私も、高校の補修で日曜もラジオを聞きけなくなり、卒業して東京に出たので全くラジオを聴けなくなりましたが紛れもなく、あの頃のラジオは私にとっての 友達 でした。いつも持ち歩いてた 私のオレンジ色の小さいラジオ。ジュリーやLAZYや石野眞子ちゃんのようなアイドルから、中島みゆきさんやNSPとか、あ、それと忘れてはいけないのが BCR(ベイ シティ ローラーズ)の曲をよく聞いてました。洋楽もきいて、私にとって大事な番組でした。  ―2019年7月8日 月曜日―

「ラジオは友だち!」  ⑰    「テレフォン・サービス……ラジオ最新情報」     このテレビ業界に入って影響を受けたのは、TBSプロデュサーだった弟子丸千一郎さんと歌手の長渕 剛さんの2人です。長渕さんは人のつきあいを大切にする人でした。デビューの頃、福岡で辛酸を味わった人らしく味があります。「歌謡曲ベスト20」 は番組は一時期、担当アナが代りましたが、1年ちょっとで、また私に戻りました。なぜだろうかと聞くと、番組でかける曲を途中でクロスして終わりまでかけないので、リスナーの評判がいまひとつだったとのこと、リクエストした好きな曲を最後まで聞きたいのです。多くは中高校生で、お小遣いの中からはがき代をねん出して歌手や番組を応援してくれました。子供の50円のお金はおとなの千円にも匹敵する。無駄にはできません。 私はがんばって20曲きちんと完奏させる週もあった。番組名は「MRT歌謡曲ベスト20」 になりました。 「ベスト20」 は音楽情報誌に「ファンと密着の音楽重視番組!」と紹介されたことがありました。おしゃべりはなるべくさけて、レコードはイントロから最後まできちんとかけています。人気歌手のサインやコンサートの券、映画のチケットが当たります。今年のお年玉プレゼントをマッチ(近藤真彦) のサインでなんと100倍の申し込みがあってビックリしました!私は当時、宮崎の追っかけマンとしてテレビにも登場しています

そして他局にはないサービスとして「テレフォン・サービス」を行っていました。番組を聴けなかった人のために番組の最新情報やプレセントの紹介などを電話で紹介するものです。これをTBSのザ・ベストテンで紹介した。スマホのない時代では斬新でした。当時、「MRTテレビサービス」というMRTの関連会社がありました。主にテレビ販売の会社で、市内の中心部に宣伝をかねてほしいといって関連会社を中心部に作った。数人の社員がいました。宣伝用のテレフォン・サービスもあった。が、ただあるだけであり遊んでいた。私は進言して、このテレフォン・サービスをベスト20用にプレゼントや最新情報のPR用に借りました。テープの長さは1分で、番組のテーマ曲にのせて1位から20位までを紹介し、今週のプレセントを紹介しました。すると1週間の利用が800件ぐらいあった。5基の機械はフル運転だ。学校がおわる4時~6時が多い。今週のプレゼントをたしかめている電話が多い。このテレフォン・サービスをザ・ベストテンで紹介した。樫元、薗田アナが出番の時である。リハーサルではうまくいった。本番では電話がなぜかつながらず…あせった二人はダイアルを紹介して終わった。帰つてみると宮崎の電話局のその番号がパンクしてしまった。そのダイヤルに全国から電話が集中したのです。私は電話局から怒られた。    ―2019年7月7日 日曜―

「ラジオは友だち!」   ⑯   「百恵ちゃんへ……ファンが妻駅入場券」     1980(昭和55)年11月15日、「山口百恵ちゃんにプレゼントをしたい。東京に行く時にこれをあげて!」 宮崎市のファンの谷口さんからまもなく結婚式をあげる百恵ちゃんに国鉄妻駅の入場券でした。まかせて!と樫元と薗田さんが請け負いました。当時、妻線は赤字ローカル線で廃止の対象になっていました。しかし妻駅の入場券は「入妻」で、縁起がいいということでひそかに買われていたのです。TBSの山田デレクターは「この話はおもしろい」と興味をしめし取材にきました。ちいさい駅の駅長さんと谷口さんに…とおもったが谷口さんは福岡の短大に進学し、宮崎にはいなかった。スマートフォンのない時代です。短大の寮に電話をかけると、本人はびっくりしていた。ちょうど担当が「洋と潤子の」から「圭子とジュニアの」にかわっていたので担当者の交代とあわせて「西都市の妻駅の券を百恵ちゃんに…」と宮崎のラジオのスタジオからTV中継しました。TBS「ザ・ベストテン」総合演出の山田修爾さんは、堀切峠から、青くつづく広い海を見ながら「宮崎はいいところですね~」と言った。「ウチの子供も先日西武園につれてやったらその楽しさをひとしきり話しましたよ!」。この仕事は休みもなくて…とすこし反省をこめて言った。 山口百恵さんの唄に「秋桜」があります。秋の日のしずかな日に娘をおもう母と娘の唄です。そういえばさだまさしさんも妻駅の入場券をもっていると言っていた。

長渕 剛さんは鹿児島県の出身で、気があった私はよくコンサートにも行きました。「歌謡曲ベスト20」で長渕さんにインタビューしました。  樫元アナ  あのうフォークを唄っていましてね、これまでに一番強烈な印象を与えてくれた人はどなたでしょうか!  長渕さん  やっぱりね、俺ギター始めて当初に見たコンサートで、吉田拓郎さんのワンマン・リサイタルですね。ひきがたりで、最高によかったですね!いまでもはっきり覚えていますよ!  樫元  そうすると、それが長渕さんが、よし、ひとつ自分ももうすこし大きく羽ばたいてみようと、そうゆうきっかけとなったわけですか!  長渕さん  そうですね、拓郎さんのコンサートを見てなければ、べつにギターを弾いてなかったしね、そうゆう意味では感謝してますね。  樫元  吉田拓郎さんと言えば、今ではかなり上の方になった人ですが、長渕さんはやっぱり高校生とかフォーク愛好者の中では、まだ身近な感じがするん…ですが、  長渕  ハハハハッ、そうですね、本格的にプロでやりはじめたのは昨年の9月からですからね、やっぱり拓郎さんとか南こうせつさんとか同じ事務所に入れたのはすごくうれしいです。いまからもう同じ隣り町のよしみで宮崎の皆んなもかわいがって下さい。よろしくお願いしますよ、  2010年には、口蹄疫に苦しむ農家を励まそうと、川南町でトークライブを開きました。   2019年7月6日 土曜

「ラジオは友だち!」    ⑮   「テレビ中継……人気歌手登場を演出」     2時間半のラジオ生番組で20曲を完奏という企画をやることになり「頑張ってください!今週しっかり聞きます!」と声援のハガキが届きました。プレゼント当選者発表もあった。何とか、全曲完奏しました。 1位、愛の中へ、渡辺 徹、2位、セカンド・ラブ、中森明菜、3位、春なのに…柏原芳江、4位、秘密の花園…松田聖子、5位、ミッドナイト・ステーション…近藤真彦、6位、ラブシュプール…田原俊彦、7位、さよならの物語…堀ちえみ、8位、琥珀色の思い出…あみん、9位、涙のぺーパームーン…石川秀美、10位、インビーテイション…河合奈保子、11位、Gジャン・ブルース、12位、マイホーム・タウン、浜田省吾、13位、ドラマチック・レイン、14位、僕らがいた…オフコース、15位、片思い…浜田省吾、16位、噂さになってもいい…武田久美子、17位、ギャランドウ…西城秀樹、18位、哀ダンサー…本田美緒、19位、恋人も濡れる街角…中村雅俊、20位、メダカの兄弟…わらべ でした。

「ザ・ベストテン」はコンサート会場から中継をすることが多かったので、放送日の木曜日に公演があれば、中継がきます。しかし宮崎ではなぜかベスト10入りする歌手が木曜日のコンサートで訪れる機会が少なかった。TBSの弟子丸千一郎プロデューサーが「YUKI (岡崎友紀) さんがベストテンに入ったら、宮崎に行かせます」と取り計らってくれました。この番組のために「洋と潤子の…」をつくって下さったのになかなか中継がない。そのためユキ・岡崎さんを宮崎に行かせます。と… 歌は「ドュユー・リメンバー・ミー」でみんな張り切って中継しました。MRTカラースタジオの前から夜なので「待ってましたザ・ベストテン!」という花火を仕込んで夜の9時過ぎを待った。大淀川の橘橋から夜の宮崎を写すので橋の灯りをわざわざつけてくれた宮崎工事事務所の人もありがとう!リクエスト・ハガキも写り大成功でした。弟子丸さんから事前に「樫元さん、現場でしゃべりをもっと早くといわれるかもしれませんが、かまわず自分の調子でお話しください。」と言われていた。 「野口五郎を宮崎に呼んで!」「どうして五郎君は宮崎に来てくれないの!」という声がありました。西城秀樹や郷ひろみは何度も来るのに… たしかにそうだ。「ベスト20で宮崎に呼ぼう!」 小林市のファン、牟田恭子さんの呼びかけで、宮崎の五郎ファンクラブが立ちあがりました。1000名の署名が集まりました。そして東京のベストテンにいった折にこの話をしたら、五郎くんが 「近々宮崎に行きます!」。宮崎市民会館でのコンサートが実現し、ファンから埴輪 のプレゼントがありました。 2019年7月5日 金曜

「ラジオは友だち!」   ⑭    「リクエスト……はがきに思い込めて、」      記念にください  ボタンをひとつ  青い空に捨てます…」  中島みゆきさんの詩に柏原芳恵さんがせつなく唄ったヒット曲です。今でも卒業ソングの定番です。1983年(昭和58) 年1月に発売、その年のザ・ベストテン第2位になりました。レコード大賞では金賞に輝きました。 この年、葉書が一週間に約800枚来ました。当時民放はFMがなく、AMラジオはMRT一局だったのです。「春なのに」は人気で毎週かかりました。30円のはがきをリスナーはお小遣いの中から買いリクエストしていました。中学生の仁美さんもその一人、まさか自分の葉書が読まれるとは…ひとりで聞いていた「ベスト20」で、「私だったら記念のボタンを捨てないわ~」 と書きました。それが樫元アナの口から読まれたのです。信じられない。という感じだったです。  12歳~18歳までのラジオ聴取率を聞いた時に、「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」が1位でした。 別のリスナー千尋ちゃんの手紙を紹介します。

私の周りには、渋谷哲平さんや川崎直世さんのファンが多く、自分がはがきを出した歌手とどっちが上位に行くか競ってました。新曲は「平凡」や「明星」の歌本をゲットして、ベスト20を録音して何度も聴いてました。ピンクレディとか直ぐに新曲が出るから、曲覚えて、ビデオもない時代だからTV見て踊りを覚えてそれなりに忙しかったです。金子裕則さんを初めて知ったのもベスト20だったです。宮崎が地元と言うだけあってかなり盛り上がってました。高1の時 金子さんが延岡高校に雑誌の取材で来られて放送部の知り合いと一緒にインタビューに行ったのを覚えてます。薄いレポート用紙にサインしてもらって、今も持ってます。 ベスト20のプレゼントコーナーにもよく葉書をだし、当選してました。MRTのロゴの入ったでっかい赤いバスタオルやジュリーのサイン色紙。など5回くらい当選したような気がします。次の日 学校に行くと「また、葉書出したね!」って言われていました。

今週は20曲すべてお届けします!という週がありました。 インタビューやCMを計算にいれるとそう簡単にはいかない。しかしなんとか20曲を完全提供しようとしました。1983年1月5週にそれをやりました。生放送です。ハガキの総数は1週間に2177枚です。番組は0時10分から始まり2時30分終了までである。まず10位から1位までかけて、そのあと11位から20位までかけようとしました。その頃ラジオはMRTオンリーです。CMの量も多く、プレゼント発表もありました。   2019年7月4日 木曜

 

「ラジオは友だち!」  ⑬   「2秒間の思いやり……録音時間を確保」     松山千春さんの初めての宮崎コンサートがありました。宮崎市の県医師会館が会場で、寒い日だった。ファンはオーバーのえりを立て開場を待っていました。2月のことでした。 会場での松山さんの語りです。 ガキの頃さ、オレは自転車がほしかったんだ。よくはやったでしょ、「つんつんツノダの自転車」(笑)、俺ほしくてさ、親父にさ、「自転車かってくれ~」、すると子供がかわいいじっやない、子供って!それで買ってくれたんだ。五段変速を!私はうれしくって!うれしくってバラ色!(笑)、もう張りきって乗りまわした。足寄の町にはこれしかない、という顔しかないという、センスの最先端の先をいってる顔してね。…そしたら次の日、となりの野郎、10段変速買ってんの、がっかりしたねアレは、やっぱりあぁ言うのは張りあってはダメだと思いました。(笑)  「時のいたずら」、彼の生ギターで歌いました。 松山千春さんは当時テレビに出なかった。これは弟子丸千一郎さんが松山さんに1位になったらというという約束をしたものでした。  1980年9月に宮崎市民会館でライオン・ワオワオショーというイベントがありました。川崎麻世さんや狩人が来て唄うというもので、洗剤や歯磨きを買って見にいけるもので話題でした。デビューしたばかり松田聖子ちゃんも来ました。青い珊瑚礁を歌いました。歌謡曲ベスト20のサインプレセントを歌手の皆さんからもらった。小柄な松田聖子ちゃんが唄った時、この子はきっと大物にるもしれない、と私はそう予感した。なによりも歌がうまかった。デビューしたてのかわいい聖子ちゃんの面影が残っています。 

番組はカセットテープに録音していました。!番組内で発表したプレゼント当選者のはがきが、ほかのはがきに紛れてわからなくなったことがあった。なんせ週1000枚ちかくの葉書である。これは後で役に立った。カセットテープ2本に録音した。自分用に番組を後で聴けるのです。今現在でもCDにしてきけます。 当時カセットテープにヒット曲を録音して、番組のあとでその曲をよく聞くファンが多かったです。録音するには曲のイントロにアナが入ってないのが条件です。リスナーには私は 「2秒間のおもいやり」といっていました。曲紹介のあと2秒間開けてレコードをかけていました。録音を失敗しないようにです。その間にサッとテープをかえ録音がOKとなるのです。またヒット曲をメドレーでかける東京式のやり方より、終わりまでかける「宮崎方式」のほうが好評でした。もし私がリスナーの一人だったら、やはり完奏させる番組を支持したでしょう。   2019年7月3日 水曜

「ラジオは友だち!」  ⑫   「レイジー……高校生のロックバンド」      ロックバンド・レイジーが1978年8月、宮崎市民会館に来てファンと握手会をした。まだ高校生でしたが、夏休みに宮崎に来たのです。5人グループで、若さいっぱいでした。ボーカルのミッシェルに、いろいろとインタビューしました。ヒット曲は「赤頭巾ちゃん御用心」「地獄の天使」など。「赤頭巾~」のカバーは、テレビアニメ「オオカミさんと七人の仲間たち」(2010年) のエンディグテーマでした。ミッシェルこと景山浩宣さん、後の影山ヒロノブさんは「アニソン界のプリンス」と呼ばれ、「電撃戦隊チェンジマン」「聖闘士星矢」「ドラゴンボールZ」のテーマソングなどを歌っています。

私の今年の重大ニューは、なんといってもレイジーのコンサートに行けたことです!あの熱狂のステージとても良かった、日南市平野のミホさんからです。それから市内中西町の智子さん(中2)から、私はすごく興奮して最後には泣いてしまいました。一番こころに残っていることです。  薗田潤子がインタビューしました。  ポッキー  キーボード担当です。宿題に追われて今へとへとなんですけど、頑張ります。高校3年生です。  ミッシェルです。リードボーカルやってます。顔はグループの中では一番ましだという噂が流れていますが、(他のメンバーから「ありません」)  とにかくはじめての宮崎のコンサートなんで、来た人に絶対満足して帰ってもらえるよう頑張ります。 ファニー  べースギターです。特徴といえば、足が短いぐらいです。歯が出ています。  デイビー  ドラム担当の樋口です。今関心あること言えばドラムの事ばっかりです。 ギターのスージーです。特徴は…頭の毛モジャモジャ、眉毛濃し、目ふつう、鼻おっきい、それぐらいです。  薗田  レィジーといえば「怠け者」という意味でしょう?  ポッキー  ぜんぜんマッチしてないんですけど、僕らの好きなグループから名前をとったんです。  薗田 好きなグループとは? ディープル・パーブルです。曲名から取って、はじめはその名前は分らなかったけと、あとで辞書で調べて「怠け者」「愚か者」であって「どうしょうかな?」と思ったんですけど…まあ、いいやとつけました。  薗田 宮崎の印象は!  ポッキー 親切で、町もよくって、一ヶ月ぐらい住んでみたいですね。 ミッシェル また10月ぐらいに新曲が出ると思いますし、次のコンサートも、もっと楽しくできる自信があるので、よろしく!

「ラジオは友だち!」  ⑪   「ザ・ベストテン……公演会場から生中継!」      ラジオの方も日ごとに人気上昇。はがきが週に千枚を超えることが多くなりました。宮崎市民会館に来る人気歌手に、はがきを基にインタビューして、今週の「スポットライト」放送しました。「巡恋歌」の長渕剛さんはラジオの大事にしました。時々、TBS「ザ・ベストテン」に出演しました。出演して宮崎に戻るにあたって、TBSのGスタジオ出演タレントの写真がほしいと要望しました。楽しかったという話だけに終わるのではもったいない! 聞いていたTBSブロデューサーの弟子丸千一郎さんが「それじゃあ、番組の最後のところで記念写真を撮り、プレゼントしましょう」。その写真が希望者に抽選でプレゼントしました。 そのタレントたちは、その時一番人気のあるスターたちです。それが抽選でもらえる!すごいプレゼントです!ある週は、ピンクレディが「UFO」を踊り、沢田研二さんがダーリングのヒットを歌いました。 1978年キャンディーズのラスト・シングル「微笑み返し」が発売された。ザ・ベストテンに毎週各局のアナが出演しました。宮崎放送からは樫元、薗田アナが出演。私も前日入りしてリハーサルからつきあいました。なんといってもキャンディーズのリハが行われるのだからとても楽しみにしていた。前奏が流れて、三人の女の子キャンディーズが…ではない!たしかに三人の女の子が踊っているがキャンディーズではない。

歌はうまいが、腕に白いキャンディーズの衣装をもって踊っている…リハ用のアシスタント歌手なのだ!カメラの動きなどリハどおりに動いている。なるほどいそがしい歌手がリハまでは付き合えなのだ。本番ではたしかにキャンディーズがきた!これが東京だ。それを見こしてリハーサルをする!生本番のザ・ベストテンだ。  TBSのスタジオにはすべての歌手はいない。ゴダイゴは山口県の防府市公会堂から中継だ。この生がおもしろい!ニユースや事件の中継はあっても歌番組の中継というのはザ・ベストテンがはじめてだった。東京にTBSへザ・ベストテン出演に行った。飛行機はつかわずカーフェリーでいった。めずらしい東京出張なので家族で行った。4月はじめてで子供たちも春休みだったので一家そろって上京した。昼間妻と子供たちは武道館に遊びにいった。各局から話題を提供しました。ある回で、国鉄妻線の妻駅の入場券が、「妻に入る券」ということで話題となりました。それを山口百恵さんのファンがら「百恵ちゃんにあげて!」と贈ってきました。まもなく廃線になる妻線、その入場券をまもなく結婚する百恵ちゃんにあげようと! ローカル線の話題として駅長さんなどにインタビューして、宮崎放送から登りました。登るとの言い方は業務用語で、話題を送るということです。

「ラジオは友だち!」  ⑩     「ピンクレデイー……子供たち踊りまねる、」    1978(昭和53)年1月、ラジオ番組「歌謡曲ベスト20」の第一号に登場したのはピンクレディ。宮崎市民会館でコンサートがあって、これに薗田潤子が取材にいった。ケイちゃんが盲腸の手術後であったが元気だった。   薗田潤子アナ こんにちは! ミイとケィ こんにちは! 薗田 お正月は休みはあったの? ミイ はい!3日の夜から10日までハワイとラスベガスに行ってきまして、ラスベガスではウェインニュートンとレターメンのショーを見で勉強になりました! ケィ ウェインニートンにキスしてもらって!最高にうかれて帰ってきました! 薗田  振つけがいろいろあると思うんだけど、あれを憶えるの大変じゃないですか! ミイ  憶えるのはそうでもないんですけど、合わせるのがむっかしい… 薗田 ケィちゃんが得意なのはどれ! ミィ  あの、ケィの得意なのはネ、手なんかをつかうのは得意、 ケィ  手が細くて指がほそいからね、わりとちっちゃいからね、身長はあっても、わりとこまかいフリが得意、ミイは大胆なのが得意!   ミイ  腰をつかったりとかネ、そういうのが得意、  薗田  こういうショーが始まる前の気持ちは、どんな感じ!  ケィ  やっばりあの、ときどき間違えるんです。だから巧くやろうとかいうより、間違えずに正確にやろうとか、自分が最後までのって唄えるかな、と、わりと心配ですしね、  ミィ  わりと緊張してます! 何回唄ってもその緊張からはとれないです。  薗田  宮崎でこのショーを見たくても見れない人が大勢います。そういうファンの皆さんにひとことどうぞ!  ミィ  今年も一生懸命がんばりますの新曲同様ステージよろしく!  ケィ  今年はいろんなファンの方に、昨年より倍ちかい方にお会いして、「ミィとケィって本当はこういう人なんだ」という、本当の自分を見てほしい、と思います。

ピンクレディは、ラジオ放送の前年にシングルカットされた「UFO」でザ・ベストテンの1位を記録していました。次のシングル「サウスポー」は、左利きの女性投手と、世界のホームラン王である巨人軍の王貞治選手が対戦する場面を描いていました。一曲にこれだけドラマ性を詰め込む能力がすごい!二人は当時、超売れっ子だという自覚がなく、入院してテレビを見たらどこも自分たちか出でて…売れっ子と自覚させられたそうだ! まず子供たちが振り付けを熱心に覚えて真似をした。土居 甫氏の指導によるもので、彼は私の故郷・愛媛県北宇和郡津島町出身でした。ピンクレディもすごいが振付師もすごい。UFOはミリオンセラー達成し、78年に「第20回日本レコード大賞」を受賞しました。高校野球の応援歌には、今でも「サウスポー」が使われます。

「ラジオは友だち!」  ⑨     「ベスト20」担当……「ベストテン」と連動」     番組の話にもどります。薗田潤子アナウンサーとラジオ番組「MRT歌謡曲ベスト20」を担当することになりました。1978(昭和53)年の秋のことです。はじめは長い題名でした。「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」といいました。下北方町に二階建ての局社があった時代の話です。番組改変期のこと。、それまで文化放送の「全国歌謡ベストテン」があったので、おなじような趣旨の番組はMRTはいらない、との判断でした。ところがTBSが新しく「ザ・ベストテン」という番組を作りラジオもそれに協力する、ということになりました。番組タイトルは松浦宗三郎ラジオ制作課長が考えました。挨拶の一節を紹介します。

 「(樫元)こんにちは!お元気ですか!10月第3週の歌謡曲ベスト20です。なんか久しぶりに、あの、やっと普通の日曜日にもどったという感じに戻った感じがします。先週は国体の開会式て番組はお休みでした。私たちはマイクに向かってはおりましたけれど、特別番組で朝7時から10時間の生放送!…ホントに国体はネ、残念でしたね、台風が来て、(潤子)どうして台風が来たんでしょうかね、国体が終わると台風がむこうにいっちゃったりしてね、青空が広がったりしてね、(洋)でも国体というと一番あざやかに印象に残ったのは宮崎工業高校の阿万亜里紗選手の選手宣誓、さわやかで、「阿万亜里沙!」、力づよかったです。いまでも印象に残っています。そういった選手の方々、それ以外に活躍されたみなさん、ご苦労さんでした。今週は久しぶりにゆっくりとラジオを聞いてください 。歌謡曲ベスト20、お相手の樫元 洋と薗田潤子です。」 下北方町のラジオアナブースから約2時間の放送でした。

「洋の潤子の~」は、TBSの人気音楽ランキング番組「ザ・ベストテン」と連動していました。若者より中年の薗田・樫元を担当にして、電話で情報をおくる。という事であったが、途中からTBSのスタジオで「顔だし」でやることに変更!各局のラジオのDJが顔を見せることになった。テレビの司会は久米  宏さんと黒柳徹子さん、生放送とラジオアナにとっては前代未聞のできごとであった。テレビ「ザ・ベストテン」の台本です。青いのが予定稿です。厚いものです。これをTBSの久米 宏さんは憶えてしまいます。毎週かわります。相当頭が良くないと勤まりません、宮崎放送の出演日が決まりますと青い台本が送ってきます。TVに出てどんな話をするか…を電話で決めて前日に上京します。全国放送ですからプレッシャーはありますが、そんなことに負けてはいられません。生放送です。

「ラジオは友だち!」  ⑧   「開局当初……社名は「ラジオ宮崎」      宮崎放送は、初めから宮崎放送という名前ではありませんでした。1961年までは「RMKラジオ宮崎」で、ラジオ専門の放送局でした。岩切章太郎さんやその他の皆さんが運動して下北方町858番地に局社を建てた。ラジオだけであり経営的には苦しいものがあった。それがテレビ放送がはじまり1961年名称を宮崎放送とかえて以後順調に発展した。呼び名もRMKからMRTへと変わった。ラジオ専門の時代をしる古い人には「ラジオ宮崎」といった方がわかりやすい。私も高校時代は「ラジオ宮崎」と呼んでいた。小田アナのいる当時のRMKが好きだった。孤立無援の青年だった私に宮崎へという光をあたえてくれた弓削課長やその他の人の縁をわすれない。後に、アニメ番組ファンのいづみさんは、「もし樫元さんがMRTのアナ試験に通らなかったら、アニメランドもわくわくゲームランドも無くて、東京の人気声優さんも宮崎にあんなに来ることはなかったでしょうに、ホントに不思議なご縁ですね。と言った。 さらに私が「私が生まれたのは九州です。」といったらおどろいた。 父の仕事の関係で福岡県の門司にいた時、私が生まれた。九州男児です。宮崎に来たとき自分のふるさとにかえった安心感があり、仕事で活躍したのもなにかの縁でしょう。愛媛は土地がせまくそれがなんとなくイヤだった。広々としたところがいい。宮崎の自然は自分に合っていた。ウィンドサーフィンが趣味の自分にピッタリ合っていました。

人をけおとしてまで出世するタイプが嫌いで、競争はせずにのんびりと風とたわむれるウィンドサーフィンが好きだった。秋になって「海にうさぎがはしるようになると」風にのって走った。海に兎がはしるとはサーフィン仲間でいう言葉です。風がすこし出て、ときどき白い波が出てくる状態をいいます。絶好のコンディションです。川越育雄さんや宮崎医科(現・宮崎大医学部) の仲間と、青島で秋に冬に春に走った。夏は海水浴が多く水上バイクもいるので、青島では乗りませんでした。1枚の写真があります。京都で3人が会っている写真です。私と寺村英夫君と吉澤英一君です。日大芸術学部の同級生です。60歳を過ぎて再会しました。現役を退き、皆それぞれの道を歩んでいますが、会うと日芸時代の話に。放送局の懐かしい話になります。寺村君は脳梗塞で少し左が不自由になり、私もこのあと脳出血に倒れましたが、今は回復しています。

「ラジオは友だち!」  ⑦   「電リク番組……土曜に長時間生放送、」      土曜日の夜7:30分からなんと10時まで放送した!電話の受付は宮崎女子高の生徒があたった。番組内では、マイクの奥で慌ただしく電話を受け付けてる音声も紹介していましたが、その声は実は、にぎやかさを演出するために録音したもの、実際には電話のむこうがよく聞こえるような静かな部屋で受付した。テーマ音楽は初代アナの渡辺得祥アナウンサーが構成した。とても合っていた。ジミースミスはジャズ・オルガン奏者でWhos Afraid of Virginia Woolf ? を使った。邦題はバージニアウルフなんかこわくない、斬新なモダンジャズのオルガン奏者だった。社内移動で渡辺アナから樫元アナにかわった。電話のリンリンという音が効果的に入ったTMはそのまま使った。当時の録音があるので聞いてみよう。

1971年のカセットで録音したもので音はよくないが…「 電話の音、テレフォンナイト!TM~テレフォンメイツの諸君!こんばんは!そして恵子ちゃん今晩は!というのも恵子は今日が最後で‥なんとなく感無量のところがあるんだけれど、どうですか?感想は?(恵子)なんかねぇ、スタジオへ入る前はそう思わけはなかったけど‥、悲しくなっちゃう‥(樫元) そうねえ、ずい前から皆さんにもいろんなことを手伝っていただいたのだけど、楽しくやってきたのだけど恵子ちゃんは今週が最後です。それから今日の関係者は、プロデュサーはせっちゃん、ミキサーは黒木さん、レコード室は伊地知友子さんと宮崎女子高校のアルバイトの皆さん、スタジオの奥にはせっちゃんが入れてくれたとってもキレイなフリージア、黄色い花でね、香りがとってもいいんた。いま皆、ダイアルをまわして頑張ってる諸君が多いと思うんだけど、この番組は9時半まで受け付けます。この番組はシグナル・チェーン、日立家電、パイロット宮崎うきわ会、吉田レコード店の提供です。」

当時中学生でのちにニッポン放送に入った兵頭頼明くんは、オープニングテーマ曲がオリジナルよりもリズムが良いため原曲の一部をカットして使ったはずだと気づき、私に原音のCDを送ってきた!そのとおりだった。くわしい!延岡でテレフォン・ナイトをきき将来は放送の道へすすもうと考えいた兵頭くん、系列のフジテレビで映画の紹介などもしている。 全国放送の文化放送で夢中になったS盤アワーや、元祖の「ユァヒットパレード」が私の頭の中にあって、ローカル局といえどもそのレベルまで放送を楽しくしたい、と心の中で決めていました。

「ラジオは友だち!」  ⑥    「プロの技……曲紹介後すぐに再生、」      1965年ごろ、県内の民間放送は宮崎ではMRTだけだった。自社で洋楽番組を作っているのはユァヒットパレードだけで、洋楽の好きな人はよく聞いていた。東京に転勤された小田アナはもともと東京の人だった。文化放送の番組をきいており宮崎でも洋楽の番組を、と願ったらしく題名もユアヒットパレードとつけ自分でしゃべった。小田アナはさすがしゃべりはうまかった。ところで私はアナウンサーが曲名を云ったあと、すぐレコードがかかるのが不思議だった。家庭用のレコードはそうはいかない。プロの不思議だった。それはこうである、プロの音卓のレコードは曲のあたまの05秒まえで急停止をかけておきアナが曲名を言ったあと急停止を解除して45回転をするしくみだ。デンオンという専門メーカー製の音卓の場合05秒後に音楽がかかる。急停止を解除し45回転にもどしてやる装置がプロの音卓にはそなわっている。家庭用にはそれが不用なのでない。急停止のレバーはミキサーがかける。手作業である。音卓の近くで音きいているとかすかに急ブレーキのベルトのおとがする。私の担当のアナは吉竹アナがやった。彼のユァヒットパレードのファンだった阿部行雄氏が宮崎日日新聞社で活躍し、退職の際に「少年時代にファンだったユァヒットパレードの面影を」いまいちどとテレビで3分間の「ユァヒットパレード」はもともとラジオの番組でありむつかしかったが、私も参加した。懐かしかった。

1971年に「テレフォン・ナイト」が始まった。電リクです。高盛恵子アナがお相手で二人の会話が楽しかった。はじめはまだ電話が直接スタジオには入らなかったが、そのうち入りアナとリスナーが「生勝負」で面白くなりました。ラジカセが発売されるとラジオを抱えてリクエストしょうと赤電話にならぶ風景が見られました。携帯電話もない時代です。へドバとダビデの「ナオミの夢」、ジェリー・ウォレスの「マンダム~男の世界」、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」などによくリクエストが来た。電話で話の面白い人をチェックしておき、そんな人から電話がかかると、女性ディレクターから「スタジオのアナと話してみませんか!」と話しかける、「はい」と答えた人の電話をつなぐ、これは女性デレクターの役目だ。声のくらい人などをのぞいておく、女性のほうが向いている。直感勝負で生放送、 電話に出た人には簡単なクイズをしてTシャツを賞品にあげた。「五木ひろしの長崎から船に乗って…どこについたでしょうか? 答え「神戸」です。」電話リクが入り放送もずいぶんかわりました。女性アナは恋人がわりになり、男性アナはお兄さんとしてテキパキと生放送にあたりました。

「ラジオは友だち!」  ⑤     「ユアヒットパレード……「ドーナツ盤」を回す、」     なつかしい「ユァヒットパレード」のオープニングの一節を紹介します。1965年の放送です。まだカセットもない時代で10号のオープンリールで1時間同時録音したものが残っています。フルトラック録音でスコッチ製、音質はいい。ふつうは生放送ですが、夕方に放送したので同録用の機器が空いていたので録音しました。ドラムの音! ユアヒットパレード!TM(テーマミュージック)~この番組は鷲のマークでおなじみの大正製薬がお送りします。 ユァヒットパレード年末特集、この時間は毎週日曜に大正製薬が皆様のお葉書によって発表しておりますユアヒットパレードの、今年後半の総合順位から発表してゆきます。今年の最優秀歌手男性と女性歌手も発表します。ぜひお楽しみに!なお2時間にわたってレコードをまわすミキサー担当は本田、いつものようにアナウンサーは樫元でございます。では1965年の年間チャート25位はローリング・ストーンズです。得点は1160票、サティスファクション!

スコッチ製のテープは優れていました。国産は急ブレ―キをかけたりするとテープが伸びました。その点、スコッチは切れます。伸びたテープは使い物になりませんが、切れたテープはつなげばいいのです。 そのごろ、ベンチャーズの「パイプライン」やビートルズの「ロックンロール・ミュージック」、ビリーボーン楽団の「真珠貝の歌」、シルヴィ・バルタン「アイドルを探せ」、エルビス・プレスリー「涙のチャペル」などがこの年のチャートを賑わせました。

入社すぐに私が番組を担当した背景には、次のような事情がありました。前任の小森アナが故郷の熊本に帰ることになったので、次を探していた。洋楽のDJとして宮崎弁が出るアナは向かない。そこへ関東式アクセントの私が現れたということでした。宮崎弁の出ないアナを探していたわけです。よくミキサーの本田英喜さんと一緒に仕事をしました。その頃のレコードはSPからドーナツ盤に替わった頃です。ミキサーに渡すときは、何枚ものレコード盤を注意ぶかく手渡しました。ドーナツ盤とは、欧米のメーカー主にジュークボックス用に作られたためで、真ん中に穴が開いているためドーナツ盤と呼ばれました。正式にはシングル盤です。  「私も洋楽のファンでした!」というファンに会いました。中須一男さんです。本庄高校生のとき友達からシングル盤をもらい「霧のカレリア」、ベンチャーズのパイプライン、ビリー・ボーンなどよく聞ききました。とのこと。世界中でエレキ・ギターブームを起こしたザ・ベンチャーズの来日時には「宮崎市民会館に見に行きました。ノーキー・エドワーズが卓越したテクニックを披露して驚かされました。後に彼がシーガィアに来た時は、79歳になっていました。しかし「ダイアモンド・へッド」「ドライビング・ギター」「十番街の殺人」など往年のテクはさすが」と、熱く語っていました。

「ラジオは友だち!」 ④     「初の担当番組……司会練習で話術磨く、」     放送業界はテレビの進出で受けており会社も増築し2階の建物になった。そんな時に入社です。しかし、まだテレビは午前中と午後にテストパターン音楽を流し放送は休み。夕方から番組を放送しました。民放はそんな時代でした。当時「JNN二ュースコープ」のメインキャスターとして活躍したのは田英夫さん、古谷綱正さん。分かりやすい解説で人気がありました。まだ白黒テレビでした。 新人アナの私は、すぐラジオ番組「ユアヒットパレード」を持たされました。日曜日昼の洋楽でした。「オープニング、TM(テーマミュージック)~今どんな歌がヒットしているか!これからどんなヒットするか? あなたのご投票できめるユァヒットパーレド、この番組は大正製薬の提供でお送りします。」愛媛にいたときによく聞いた昼間の番組を、自分が担当するとは… ただ、高校野球中継をする時に、前週に「次の週は野球中継のためユァヒットパレードは休みます。」と入れてもらいたかった。なんのことわりもなく高校野球中継をするのはリスナーに失礼だと思った。 私のしゃべりはまあまあでしたが、ネタがない。洋楽情報の週刊誌があれば…ない。町場に出て西村楽器店や原楽器店でネタを仕入れました。放送局が田舎にあると、こんなてんで不便です。月刊誌にミュージックライフがある、本田書店にも寄り話題を集めた。パットブーンやエルビスビス・プレスリー、ポールアンカ、ビートルズ、シルビーバルタン、ニニロッソ、クリフリャード、ザ・ベンチャーズなど洋楽は花盛りでした。

私は、スタジオで原稿を読むのは得意でしたが、アドリブは苦手だった。プロのアナならできるはずですが、入社してすぐに番組を持ち、練習する場があまりありませんでした。そこで自分で河合楽器ビルの7階で毎週土曜日の夜にコンサートを開き原稿がなくてもコンサートができるように訓練しました。曲がかかっている間は、室内の照明をおとしました。歌謡曲ベストテンやポップス・ベストテンなどで、河合楽器のレコード部の女の子にレコードをかりてかけました。幕もなく、司会者とお客が常時顔を会わせている。隠れるところもない!何回もやっているうちに、だんだんアドリブでコンサートができるようになりました。コンサートは入場無料。会場は河合楽器が無料でつかわせてくれました。もちろん資料の下調べは前日までにやっておきます。6カ月続けた強制訓練はとても役にたちました。ウィークエンド・コンサーに来てくれた皆さん、私の勉強につきあってくれてありがとう。今でも来てくれた人たちの顔がうかびます。ラジオ制作部のやかましい三上謙一郎さんが「樫元くんはアドリブがいいねぇ」と言ってくれました。のちにアニメランドの公開録音の時にファンの前に立つと役立ちました

「ラジオは友だち!」 ③     「宮崎放送入社……急な募集、好機つかむ、」     2次試験の連絡が来ました。私は1次で落ちるようだったらもう自分にはアナの資格はないとして父の命令どおり農家をしようと考えていました。2次に何人通ったのか聞いたら、4人とのこと。がぜん頑張ることにしました。しかも2次は会社から旅費が出る!1泊の旅館代も会社負担。そして労務課の人が身辺調査に遠い愛媛の自宅まで来るという「騒ぎ」となりました。父に黙って試験を受けましたが、こうなっては父に打ち明けました。労務課の弓削課長は、大分経由で愛媛に来ました。遠いところです。タクシーもない村なので、バス停まで私が出迎え、ホンダ・スーパーカブの後ろにのせて家につれて行きました。父に「通るかもしれんよ」と私は言いました。弓削課長から「まだ大学があるけど…中退になるけどいいかね」。当初は大型運転免許もとって東京に行くつもりでしたが、すべてアナウンサーになることが目的だったので、宮崎でアナになれればそれでよしと返事をしました。子供の希望だったアナウンサーになる夢が現実になる!母が生きていればどんなに喜んだことでしょう!

宮崎放送は社内の事情でアナウンサーが2人辞め、急きょ募集をすることになっていたのです。すぐ使える人を!ということでしたが、アナというものはなかなかすぐ使えるものではない。すぐ使える人をつかまえるのに、労務の人は大変です。特に男性アナは。東京ならいますが、宮崎に来てくれと言われると話は違います。ピンチヒッターは全くの素人にはできない。愛媛で毎日、MRT宮崎放送を見ていて、日大の放送学科に行っている人は願ったり適ったり、という訳でした。大学に進学する時、亡くなった母が山の木を売って作ってくれた入学金が見事に実を結びました。母に感謝です。母の看病のために大学を休学しましたが、むしろそれが、アナウンサーの道へつながることになりました。試験を受けるときは日大の学生服でしたが通った後は、一人前の背広がいります。父の弟が「俺がつくってやる」といって八幡浜の洋服屋に連れて行ってくれました。店の主人は私を見て「ああ、この人はラクですわ!」と言いました。叔父は太っていたので、採寸に苦労していたのです。

 昭和39年、入社日は1月6日と決まりました。入社日はたいてい4月1日となるのが普通ですが、私と吉富堅二郎君は違いました。会社は急いでいたのです。吉富君は二枚目で、演劇の方に進んでいる人でした。MRTは2回受けて合格したとのことでした。

「ラジオは友だち!」 ②    「進路を決意……母が進学資金を工面、」      高校を卒業する頃、こんな田舎に住んでいては自分が小さくなってしまうと思い、せめて大学は東京に行きたいと思いましたが、高校2年とき選んだのは、就職コースでした。農家の長男として就職コースは当然で、農協の職員などになるのがあたりまえだった時代です。しかし自分の夢はアナウンサーになることでした。 学校の放送部に入りアナウンスのまねをし、「樫元さんはいい声だね~」と女子から言われることがありました。高卒では受験資格がない。大学へいかなければならない。いまから進学コースも無理だと悩みました。しかし旺文社の「蛍雪時代」を読むと、高校の進学コースとかの枠はなく普通に高校を卒業してれば大学は受けられることに気付きました。よし、これだ!日大の芸術学部の放送学科を受けよう!でも家にはなんと言おう、私立は金がかかる。母に相談しました。母はもとは四国の人ではなく静岡の人で、親子の会話は四国弁ではなく関東の言葉で関東式アクセントでした。アナウンサーになる夢を子供が実現しょうとしていることに感動し、独断で山の木を売り入学金を工面してくれました。試験には見事合格!第一志望の放送学科でなく文芸学科でしたが、それでも大学に何とかなると思い、上京しました。東京へ向かう列車・あさかぜの車中で車掌から電報です。「放送学科に補欠合格です。」という父からの連絡でした! 私大は補欠合格という制度があるのを知りました。

大学で同期の寺村くんは、後にKBSのアナに、吉澤くんはラジオ栃木のアナになりました。大学2年の時、母にがんが見つかりました。 「母は静岡の人だから愛媛に親戚もない。」私は休学して看病をしました。ふるさとに、山と海がのぞむ風光明媚なところがあります。そこを母も私も眺めたいと思いました。ある秋の日、私はホンダ・スーパーカブに母を乗せて、そこに行きました。山の頂上でしばらくただずんでその風景を見ました。足摺国定公園に指定されていた場所です。海の見える風景に「伊豆に似ているね」と母は言っていました。 母はまもなく亡くなりました。また日大に復学しょうとしましたが、金がない。大型運転免許を取りました。それで大学へ行こうとする算段です。父からは「もう農業をしてくれ」と言われており、孤立無援でした。たまたま、普段聞いている宮崎放送で、アナウンサー募集の試験があることを知りました。「兄ちゃん、受けてみたら」と弟。その声に推されるようにして、バスに乗り宇和島から小さな客船で別府へ。そして日豊線で宮崎に行きました。宮崎はまっすぐな線路が続き、なんと広いところかな、と思いました。 宮崎放送は意外と田舎にあり、駅から時間がかかって集合時間に遅れてしまいました。受付の女子社員に言うと「あら、君は来たの、愛媛から!」と驚き会場へ案内してくれました。1次試験の受験者は150人。私は試験の後、宮崎へ来ることはもうないかもと思い青島へ行きました。広くて美しい海岸でした。

「ラジオは友だち!」 ①                「 愛媛で育つ……宮崎の放送に親しむ、」    初めまして、樫元  洋です。私はMRT宮崎放送で長くアナウンサーをしていました。特にラジオの仕事が多く、50代以上ならば「洋と潤子のあなたが選ぶ歌謡曲ベスト20」などの番組名でピンとくるという方もいるのではないでしょうか。このたび、自分史エッセイを書く機会をいただき、ラジオが流行や文化を引っ張って時代の、忙しくも活気にあふれた現場やリスナーの皆さんとの交流などを、思い出すままに文字にしたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

私が入社したのは1964年(昭和39)年。テレビ放送がスタートしたばかりの時期で、放送局は宮崎市下北方町858番地、大宮小学校のすぐ近くにありました。2階建てでした。当時、放送局があるのは知っているけど、下北方ってどこかな?という人が多かったです。まわりは建物よりも田んぼの方が多く、社屋の周囲にあったレンゲ畑が素敵でした。テレビは、ローカルニュースが主で、たまに歌番組や報道特番などを放送していました。ラジオでは「サロンタイム」や「歌のない歌謡曲」、テレビは「サンデショー」などが親しまれました。世の中では、家庭で年賀状などが印刷できる(当時は画期的) 簡易印刷機「プリントゴッコ」や「キャンディ―ズ」の、人気絶頂期の解散が話題でした。現在の橘通西4丁目に新社屋を建てたのは1984年。それからなにかと便利になりました。七階建てのおしゃれなビルです。窓に映る夜の風景が素敵でした。私は北九州市の門司で生まれ、3歳ぐらいで愛媛南部南宇和郡内海村柏に移りました。海には恵まれていましたが、平地の少ないリアス式の、海のすぐ近くまで山が迫る土地でした。少年の頃は小さい村とも思いませんでした。

ラジオは、愛媛県の南海放送は山に遮られて受信できませんでしたが、逆に宮崎や大分のラジオ放送がよく入りました。海の向こうは大分県や宮崎県だから、当時の黒木知事など、RMKラジオ宮崎からよく知っていました。「銀天街アワー」などもよく知っていました。たまに宇和島市へ父に連れられて行くと、「なんという広いところに住んでいるのか!」と思い、その頃は自分の場所の方が良く感じていました。しかし、友達が就職のため大阪などの都会に出ていきました。自分がすんでいるところが狭い田舎であることを思い知らされました。1958(昭和33)年のことです。夜に受信できた文化放送の「S盤アワー」とか「ユァヒットパレード」で田中まり子、茂木幹弘のアナウンスを聞いて、洋楽の楽しさとラジオの楽しさを味わいました。世の中にはこんなに広い世界があるんだと実感しました。スイッチを入れれば好きな音楽がかかる。 ラジオは友達でした。